ウェブマスター日記 July-December/2007

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
感想をいただけるとありがたいです→webmaster

2007/12/24
日曜日は雨の1日になる予定でした。しかしながら、雨の降り始めが前倒しになり土曜日が雨、日曜日は午前中で上がりそうです。朝、目覚めて耳を澄ますが屋根を叩く雨音が聞こえない。お〜止んだかな?もう一眠りして再び起きると、ポツポツ、ポツポツとまた降り出したようです。
家内が都会方面に出陣し、このままでは本読みの1日になるかなあと思いながら朝食を食べていると、天気模様が好転の兆しです。10時を回り西の六甲山を見ると、雲間から光の筋が入っています。出かける用意です。
本を持って浜に出撃です。折れていたというドラゴンのマストを見に行きます。ザックリ傷が入っています。マストホールの下ぐらいでしょうか。次の強風で乗っていたら確実にディスマストしていましたね。早期発見で、マスト・セール・艇体の他に人的損失も未然に防ぐことができました。よかったです。
エ号を見ると、修理が上がっていると連絡のあったジェノアがまだセットされていません。正月開けに淡路島クルージング計画があるので、イトウ君に「それまでに頼みます」と連絡しました。ハッチを開け空気の入れ替えと、エンジンを数分回します。あまり風が吹かないのではと思っていましたが、既に南からの風が2〜3m/s入っています。寒いのでセンターハウスで本を読むことにしました。
しばらくするとシグナスメンバーさんが来られました。クルージングに出られるのでしょう。日差しはあるので、いつも行かないハーバーの西桟橋の方に行ってみることにしました。センターハウス西の芝生、ここはドッグランのようにワンちゃんと散歩している方が多い、を抜けると、BMWのバイクを2台並べて撮影しています。反射板に三脚カメラでプロさんのようです。広告に使うのでしょうか。
芦屋との水路に向けて更に歩きます。右手にはハーバーサイドの住宅が並んでいます。海側に植えられた松が大きく育って家を適当に隠しています。西の端まで来たら、お父さんが釣りをしていました。何やらブツブツ言っています。釣果が今一なのか、「なんだまだ・・じゃない」と私には意味不明の言葉です。私の存在が気にならないのか、何度も同じ台詞を吐かれておられるので、芦屋ハーバー方面に先を急ぐことにします。視線の先では、ライトブルーの清風FJスピンが3艇並んで見えています。ということは、後ろについているレスキューはきよかぜでしょうか。そこのベンチに座ってしばらく読書です。
ふと気になって、長男君に電話してみます。金曜日、GFさんを連れて帰ってきました。「車を取りに来ただけで、別に特別な意味はないよ」と家内に言ってたそうです。「きれいな子だったよ。かわいいというより美人という感じかな?職業柄、きれいな標準語をしゃべっていたよ」とのこと。GFさんについていろいろ質問しましたが、「そんなこと訊けないわよ」・・・まあそうですね。私だって何も訊けないでしょう。ただ言ってくるのを待つだけです。でも家内は嬉しそうでした。子供達が中学の時、かかってきた電話にいかにも不機嫌そうに答えていたのとは大違いです。「せっかく電話をかけてきてくれたのに。きっと勇気を振り絞ってかけてきたんだよ」と言っても、「自分から名乗らない子は常識がなさ過ぎるわ」と、聞く耳持たずでした。自分の息子だって同じようなものの様に思いましたが、それを棚に上げてついぞ見たことのないような不機嫌に・・・母親とは息子のGFさんに対して、こういう感情なのかと驚きました。そのことを思うと、彼女のファースト・インプレッションはかなり良かったのでしょう。
土曜日の朝、今年場所を変えた家内の実家のお墓の場所を訊いて来たようだけど、説明できない家内は目印だけ教えたらしい。GFさん連れて墓参りとは、なかなかいいなと思いつつ、たどりつけたのか気になっての電話でした。「行けたよ」「そう、ところで今日船に乗る?」と訊いてみました。前に約束していたからですが、美人のGFさんを見てみたいという下心ありです。「今日、友達の結婚式やねん」ということで却下されました。またです。これで今年に入って私の知ってるだけで4回目です。友達が多いというか、宴会隊長は各方面からひっぱりだこのようです。
センターハウスに戻りハーバー側のベンチで本を読んでいると、ノースショップに並んでいるオプティの商品が目に入りました。あれっ?棚を見に行くと、オプティパーツの商品です。バイトのお姉さんに聞くと、置きはじめたようです。オプティパーツ用品は、待てば何でも手に入るようです。小さなセーリンググローブやオプティのビデオも並んでいます。今のOP用マテリアルの価格はわかりませんが、適当な値段のような感じがします。お姉さんと話していると、値の張るものでしたら、お姉さんがその場で上の人に電話してくれるようで、更にプライスダウンもOKのようです。自分のものにはケチでも、OP選手には親御さんが平気で財布の紐を緩めるので、ショップの売り上げに貢献するかもしれませんね。
エ号に戻り、十分風が通ったかなとハッチを閉めて、読書していると睡魔に襲われしばらく無意識に。3時前になり退散してきました。家に戻ると長男君が使っていた車が戻っており、彼のカバンに普段着がかけてあります。着替えて結婚式に出かけたようです。階段には、英文の書類や論文らしきものが束で置いてありました。学生時代、「これ要約して発表せなあかんねん」と赤線をつけた英文の論文コピーが、部屋とか階段とかに乱雑に置いてありましたが、あれみたいです。仕事をがんばってるようで何よりです。

2007/12/17
日曜日は、甲子園ボール応援に長居陸上競技場に行ってきました。近年リッツさんが強くなって我がKGチームが毎年関西代表というわけにはいかなくなりましたが、昨年に続いて今年も出場です。
付属中学の授業でアメリカンフットボールの授業があるぐらい、母校では盛んな競技です。今までいろんな球技に親しんできましたが、一番面白かったのがアメリカンです。体格のない私にはクラブとしてするのは無理ですが、卒業後も観戦する方で、ずっと親しんできました。それと、あのスタンドの雰囲気が好きです。学生スポーツは、出場校関係者が多く、スマートと表現される母校の雰囲気がしっくりきます。
関西学生アメリカンフットボールリーグ最終戦の、リッツさんと全勝対決を制した翌日、クラブの先輩から甲子園ボール(学生日本一決定戦)観戦のお誘いメールが届きました。今年は初めて家内とともに観戦することになりました。
朝食に大好きなスープ・スパゲッテイを食べて出発用意です。キックオフはPM1時ですが、前売りチケットは指定席制ではなく、ゾーンチケットです。そのゾーン内で早い者勝ちで席を取るようになっています。そこで、ちょっと早いですが11時に地下鉄長居駅で集合です。ただ、女性に長い時間待たせるのは申し訳ないので、カップルはもっと遅くてもいいよと言われていました。
1時キックオフなら、混むことを考えて12時には行っておきたい。そう思うとどうせ11時半には長居駅だし、遅れて行った私達にチケットを渡すためにご足労願うのも何だし、ということで11時の集合時間に行くことにしました。
最近家内とのお出かけが増えて、何となく嬉しいです。阪急梅田で、地下鉄御堂筋線に乗り換えると、なんと同じ車両に幹事のトヨゾウさんが乗っていました。「お〜」と声を掛けられ、驚いてしまいました。早速チケットをいただき、代金を払いました。1枚2200円で当日券より300円安いようです。
長居駅に着くと、まずトイレです。2時間前だというのに、続々とたくさんの方が試合会場に歩いていかれます。やはり指定席ではないからか、指定席だった甲子園球場とはちょっと違います。キンノさんに会い、メンバーの方が、先に行って席取りしてくれていると聞き、私達夫婦も先に会場に入ることにしました。シブカワさんご夫婦と歩いていると、ハラさんご夫婦が競技場前におられました。
チケットを見せて、試合会場に入ってビックリです。かなりたくさんお客さんが入っています。とても2時間前とは思えません。体育会部員でしょうか、KGファイターズが一面を飾っているKGスポーツを配っています。チアリーダーがいつもの応援ハリセンを配っています。彼女達はみんな笑顔で気持ちいいです。しかもミニスカートで、これまたアドレナリンを高めてくれます。「KGファイターズの応援を宜しくお願いします」なんて言われて、まるで小学校の生徒のように「はい」と答えてしまいます。
席は銀屋根の下で上から5段目ぐらいです。かなり上に歩いて上がらなければなりませんが、大人数の席を確保しようと思ったら、この場所なのでしょう。席取りしていただいたアメリカンOBさんには、申し訳なかったです。
フィールドでは、日大・KG両校が練習しています。ホームスタンド側の日大席の下では、日大チアリーダーが円陣になってミーティングをしているようです。30分ほど前になると、チアリーダーが出てきて、ブラスバンドを伴って応援を始めます。ブラスバンドの前にリーダーがいるようで、大きな紙に書かれた「ヤマト」だとか「ポパイ」などを掲げます。するとブラスバンドの演奏に乗ってチアリーダーが、イキイキと動き出します。決められたフォーメーションを、一糸乱れずこなし、観ていてとてもきれいです。側転や空中ジャンプ、2段3段とサッと組まれる人間やぐらが見事です。双眼鏡で観ると、相当きつい運動量だろうにみんな笑顔です。すごいです。
いつも笑顔と同様、手足の動きや動作の決まりごとがあるようで、1人1人の動きがきれいで、それが揃っているので魅せてくれます。さらに風に吹かれて、時々ポンポンの糸がはがれるのですが、すぐに拾いに行き、さっと靴に入れます。拾う時ひざを曲げない動作や、次の応援までの大きく左右に足を開いて待つ姿勢も、みんなの歩幅が揃っている。相当練習しているようです。彼女達にとっても、この舞台は晴れ舞台なんでしょうね。観客席にもチアリーダーが回っており、応援席と一体になろうとしています。
日大とKGとの応援が重ならないように、順番にチアリーダーが動きます。こういうのも学生スポーツのいいところかな?知性と理性にスマートさが加わって、いい感じです。ここでトイレの場所確認のために2人でトイレに。ここから満員のスタンドの自分の席に見つけるのは大変なので、予行演習です。
さあ、キックオフが迫ってきました。両校サイドにチアリーダーが2列に並び、日大フェニックスとアナウンスされると、フェニックスの大きな紙を突き破って選手が登場し、チアリーダーの列の間を走り抜けてフィールドに出てきます。続いてKGファイターズです。大歓声です。
KGキックオフで、日大の攻撃からです。前評判どおり、日大ディフェンスラインがとても強く、KGオフェンスはランで前に進めません。中央に穴を開けられず、すぐにタックルされてしまいます。こちらも関西リーグ戦史上最高のパス成功率を誇るQB三原君のパスで対抗です。日大QBは、ラン攻撃では進みますが、パスコントロールが今一で、パスインターセプトを数度されてしまい攻撃権をKGに渡してしまいます。
あわやインターセプトかと思うようなピンポイントパスを通す三原君ですが、ラン攻撃の方は、ランニングバックのランが出ないので、QB自らのランでしか稼げません。何となく日大の方が強そうな印象を受けました。
第1Qは日大TDで0-7、第2QはKGTDで7-7、パスインターセプトでKGは攻撃権を奪いフィールドゴールFGで10-7、次日大のFDで10-10、ここでハーフタイムです。
昔のようなアメリカのようなマーチングバンドのハーフタイムショーはありませんでしたが、昨年よりはグレードアップされていて、これも結構楽しめました。ハーフタイムショーが終わって、ハーフタイム中は混んでるだろうトイレを敬遠していた家内がトイレに立ちます。
第3Qから、両校オフェンス陣が前に進み始めました。相手チームに探りを入れていたところから、積極的に攻撃を仕掛け始めている感じです。KGランニングバック陣が、明らかに進み始めました。反対に日大パスオフェンスもゲインが増えます。KGFGで13-10、日大ランニングが更に出始め日大TDで13-17。KGQB三原からパスホットラインのワイドレシーバーWR榊原にTDパスが通り、20-17で第3Q終了です。残すは第4Qの15分だけです。次どっちが点を取るかで試合の行方が決しそうです。
隣のシブカワさんの奥さんから「あれ、奥さんは?」。そう言えば帰ってくるのが遅いかも?混んでるのかな?階段を下りてトイレのところまで行くと、「場所、わからくなっちゃった」と壁にもたれかかっています。失敗してしまいました。もう少し早めに気づいてあげるべきでした。申し訳ない。
KG、TDです。これで27-17。1TD+1FG差で残り時間は10分ない。やっとセーフティーリード圏内。と思ったのもつかの間、日大ランニングバックNo21がキックオフリターンTDというビッグプレーで27-24。次のKGオフェンスドライブが終わり、日大ドライブに変わると、QBからKGバックス最後尾セーフティー奥へのロングパスがいきなり出ます。今まであの距離のパスは、オーバードライブでパス・インコンプリートになっていたのに、ディフェンス裏に抜けたレシーバーがキャッチして、そのままTDでまさかの27-31。
後半に入り、KGTDごとに総立ちになってハリセンを打ち鳴らす応援が、一瞬沈んでしまいいます。日大ヨット部OBでお嬢さんと来ていたヒライさんが、日大応援席では寂しいのでとKG側に来ていましたが、シブカワさんが「おまえなあ」という顔で睨んで、「あっち行け」と苦笑いしています。日大の2TDは、2〜3分での出来事で、信じられません。もう時間は6分ほどしかありません。
でも次の攻撃権で、日大ディフェンス陣を引き裂くピンポイント・パスが次々決まり、再び逆転TD34-31。しかし反対に日大怒涛のドライブでまた逆転TD34-38。残り4分。
ここからKGドライブが始まりました。次に攻撃権を奪われたら、ラン攻撃で時間を使われながら、ジ・エンドです。出始めたラン攻撃とパス攻撃を組み合わせながら、ファーストダウンを繰り返しながら日大ゴールに向かって前進していきます。途中、ロングパスでのTDが決まったかに見えた場面がありましたが、先にキャッチしたKGワイドレシーバーWRの懐からボールを掻き出すように、日大ディフェンスバックDBがともに地面に落ちた時にボールを出して、無常のパス・インコンプリートの審判コールがありました。
でもQB三原は、淡々と次のオフェンスコールを続けて前進します。そしてファーストダウンtoゴールの攻撃で、日大ゴールラインまで1ヤードにたどり着きました。残り時間は25秒。さあ、という時なのに、KGの攻撃が始まりません。あれ?どうしたの?時計は進みます。残り11秒でKGタイムアウトです。QBがベンチに帰り、慎重に最後のオフェンスコールを確認です。ハドルが解け、最後の踏ん張りどころの日大ディフェンスが並び、KGが中央突破のコールでQBがダイブします。審判の両手は上がりません。反則があったことを示すイエローフラッグがフィールドに落とされています。
「どうなった?」。まだゴールラインまで届いていないようです。反則は日大ディフェンスのオフサイドですが、この位置では、ゴールまでの残り半分のペナルティーだけなので、1/2ヤード進むだけです。日大ディフェンスはオフサイドを気にせず、KGオフェンスに先制攻撃を仕掛けてくるでしょう。サードダウンの攻撃で再び中央ダイブの力技です。ピーピー、審判の笛の中、両軍選手が日大ゴールラインに折り重なっています。1人1人上からはがされてボールの位置を確認です。まだ届いていません。もう数センチです。
とうとうフォースダウンになりました。ここでFGを狙っても、4点差なので1点届きません。この攻撃でTDできなければ攻撃権を失って敗戦です。目の肥えた応援席もギャンブル支持というか、当然です。もうKG観客席は総立ちでものすごい歓声です。2度力技を跳ね返されているので、横に流れてオプションプレーを選択か?オフェンスコールは再び力技コールのようで、前2回の攻撃と同じ状況の中、RBがその上をダイブして日大ゴール側に乗り越え落ちていきます。
KG応援席はものすごいことになってます。審判の両手がまっすぐ上に上がりました。RBにラストトスを出したQB三原君はフィールドに折り重なった両軍プレイヤーの後ろで、大きくガッツポーズです。自然と湧き上がるKG校歌、私もここぞとばかりにハリセンを打ち鳴らし、大声で歌います。なんと残り3秒の逆転です。ポイントアフターTDも決まり、最後のプレイになるであろうKGのキックオフです。日大はキックオフリターンTDにかけるしかありません。KGキッカーは前回の悪夢を頭に、オンサイドキックで、最終ラインの日大No21にボールが渡らないように蹴りました。転々と転がるボールを日大スペシャルチームの最終2列目が取りましたがファンブルです。すぐに拾い上げたボールをNo21にバックパスです。
その間、KGプレーヤーが走りこんできます。No21にボールが渡ったと同時にKGディフェンス数人がタックルしてNo21が倒され、ゲームセット、KG勝利です。
表彰式の準備で、机やトロフィーがフィールド中央に並べられます。日大・KG双方から選手が出て、お互いの選手と握手し、相手ベンチに走り、ペナントと礼を交換しています。いいですねえ。自分が学生だったころ、対抗戦ではいつもペナント交換をしていました。部室にはそのペナントが歴史を伝えています。
年間最優秀選手ミルズ杯に、QB三原君が選ばれ、優秀選手には日大No21。甲子園ボール最優秀選手も三原君です。日大No23もワンランク上のRBでKGディフェンスチームを翻弄しました。
最高の試合でした。勝利校KG校歌がKG大応援団から流れ、応援団のKG・日大双方へのエールの声に合わせて、KG応援団から「フレーフレー日大」の大きな声。母校へのエール以上に大きな声でした。
こういうお互いをリスペクトしながら、お互いを正々堂々正面から倒そうとする勝負は、とても気持ちのいいものです。覇を競った選手は当然ながら、観客としてみている私達にも十分それが伝わってきます。
後ろの席に座っていた若い娘達が、大型ディスプレーにアップされる三原君に、「かっこいいわあ」と言い、前の席の元お嬢さん達が、「うわあ、すごい、すごい、すごい試合」と言い合っている。すげ〜ゲームでした。今まで観たアメリカンのゲーム史上最高のゲームでした。このようなゲームをライブで楽しめたのを神様に感謝です。
その晩、目覚ましをかけて夜中の1時半に起きて、毎日放送の録画を見ました。残り3秒で逆転タッチダウンをして、ベンチに帰ってきた三原君以下3名のオフェンスメンバーが、仕事を最高の形でやり遂げた喜びでベンチと握手しながら、すぐ後には、ベンチに腰掛けて、両手を組んで頭を垂れ、目を伏せていました。中学部から毎日親しんできた「天にまします我らの父よ・・・」のあの姿と重なりました。彼も下からの出身者なので、最後の日大の攻撃を防ぐスペシャルチームを信じて、仲間を信じる自然な姿なのかもしれません。
2200円はとても安かった。素晴らしい日をありがとう。

2007/12/10
先週は仕事だったので、2週間ぶりのオフです。先週、12月に入ったので例年通り、ジュニアのHPをほんの少しクリスマスバージョンにリニューアルしました。サンタさんのページのリンク切れをチェックし、メインページからリンクします。今年も米軍ノーラッドのサンタ追跡ウェブサイトのアドレスが変更になっています。いつも思うのですが、サンタさんの現在地追跡を米空軍基地がやってるのに唸ってしまいます。米軍の懐の深さと余裕を感じます。
サンタさんは結構好きです。サンタさんは、キリスト・モハメッド・仏陀などと並んでとても有名な人ですが、最も愛され、夢を運ぶ素敵な人じゃないかなあ。「サンタさんは本当にいるのですか?」という、誰でも一度は口にする言葉がありますが、私はいつも「いるよ」と答えます。サンタさん本人は随分前に亡くなっていますが、「やさしさ」「喜び」「嬉しい」「楽しい」と同じレベルに昇華して、お父さんお母さんから子供に、拡大しながら脈々と受け継がれています。すごいことだと思います。なんと言っても不死身です。
姪などのクリスマスプレゼントを考えていて、LoveLove Yakei Storyというのを見つけました。日本三大夜景の神戸摩耶山からの夜景です。子供の頃、斜めになった電車が急な坂を登っていくのに、怖いとともに驚いた記憶が蘇りました。確かわが子達が小さかった時にも家族で登ったような?でも夜景が観れる時間帯までいたことはありません。
阪神大震災でケーブルカーなどが一時営業中止になりましたが、その後リニューアルしてオープンしているようです。これは・・・「今年の家内へのクリスマスプレゼントとしていいかも?」・・・早速家内を誘い、OKの返事をもらいました。
阪神大震災の復興を願って、被災地各地でろうそくの灯が揺れるようになりましたが、最も有名なのは神戸のルミナリエでしょう。鎮魂の灯火もいいですが、ルミナリエの明るい未来に向けての発想は素晴らしいです。これが火付け役になって、12月やクリスマスの声を聞くようになりと、各地にライトアップや光の電飾が広がっていきます。我が家もスノーマンの電飾が玄関に点り、クリスマス電飾が家を飾ります。でも・・・夜景にはかないませんね。

日曜日の朝起きると、家内がいません。目が覚めたときには台所がゴソゴソしてたのに・・・垣根でも掃除しているのかな?と表に出てみましたが、そこにもいません。まだ具体的な時間を決めていなかったので、慌ててしまいました。きっと、買い物などの用事を済ませているのでしょう。
昼からドラゴンのマスト倒しの日程が入っており、一応行けるかどうかわからない旨の返事をしていました。午前中に浜に行って、その前準備をして勘弁してもらい、2時ぐらいで途中退散し、家内と駅で待ち合わせて摩耶山に行こうかと思っていました。それを家内に伝えることが出来なくなり、1時ぐらいに帰宅する予定で浜に向かいました。
浜について、JPN36とJPN27のオーニングをはずし、マストがすぐに倒せるように、ステイ以外のブームやスピンポール、ブロック。シートを外します。エ号に行ってみると、船底がきれいになっています。修理しているジェノアはまだですが、メインシートまで新品になっています。エンジンを数分かけ、トイレを流し、ハッチを開けて空気の入れ替えです。コクピットで本を読んでいると、関大OBさんが桟橋を歩いてこられ、ゲストさんと出艇していきます。冷たい北風が出てきたので、船を退散してセンターハウスの一点鐘を覗きます。いつもの看板娘さんがいます。彼女がここで働き始めた時、「・・君のお父さんですよね?」と次男の名を上げて呼ばれた時はビックリしたが、次男と同じ学年で芦屋高校でヨットを始め、関大ヨット部だったそうです。芦屋YHで私を見かけて知っていたようです。さらに後で知ったのですがU君のGFさんみたいで、親近感があります。
メインセールの上げ下ろしをもっとスムーズになるように、カーに吹き付けるものを買おうと何がいいか訊くと、セールコーティングスプレーが一番いいようです。油系ではないので、セールやブロックがベトベトしません。今までCRCを吹き付けていましたが、これからはカムもみんなこれですね。
これはあるので買うのをやめました。横を見るとボートフックがあります。京大のレスキューバースは狭くて入れるのが大変なので、昨年ボートフックを製作して寄付しましたが、今年落としてなくなったようです。横のマーメイドの池に浮かべるとちゃんと浮かびます。こっちを購入することにしました。
池に浮かべていると、キンノさんが来られました。2人でエ号まで行き、イトウ君が上架して船底塗料の塗りなおしなどをしてくれたことを聞きました。シェフのキンノさんは、炊事パイプの流れの点検ですが、まだ少し流れが悪いようです。すぐに帰るということなので、センターハウス前でキンノさんと別れ、ドラゴンバースに向かいます。シブカワさんが来られており、シュラウドのテープを外しておられます。来春までマストを倒したままにするようなので、暫時整備です。
12時過ぎ、浜を出て家路に着きました。1時前家に着くと、家内がきれいにお化粧して待っていました。待たせてしまったようです。自治会の大掃除で溝さらいを2時間ほどしていたようです。
さあ、本日のメインイベント、摩耶ビューライン夢散歩に出発です。リュックに防寒具を詰め、温かいコーヒーを入れる魔法瓶をリュック横のネットに入れます。阪急六甲駅で下車し、タクシーで摩耶ケーブル乗り場まで。800円ほどです。次男の中学受験のとき歩いた道です。合格発表掲示板を見た帰りの親子とすれ違いながら、不安な気持ちと期待に膨らむ何ともいえない気持ちを持ちながら、2人で上がった時を思い出します。塾友君が降りて来ると、小さく手を振ったり、会話を交わします。しばらくして「僕、合格したわ」と嬉しそうに私に言いました。試験後に答え合わせでもしたのでしょうか?志望校別特訓クラス内での自分の位置を考え、これは合格したと確信したのでしょうか?それから緊張がほぐれて多弁になり、正門まで上がると、「お父さん、ここで待ってて」と言い、一目散に合格発表掲示板に走って行きました。
住宅街の道を縫って摩耶ケーブル駅に着くと、閑散としています。2組の家族連れがいるだけです。2人分往復3000円の切符を買います。家内はいろんなポスターを見ながら、「あれなんて読むんだろうね?」と。「摩耶山掬星台」なんと読むのでしょう?「きくせいだい」と読むそうです。すぐに下りのケープルカーが着きましたが、乗車改札が始まりません。あと15分ぐらい待つようです。家内が寒そうにしているので、リュックからオーバーズボンを出します。さすがに私用なので大きいですが、ウエストを数回巻くと、まあまあです。「誰に会うこともないからいいわ」と・・・ちょっとダボダボなのが、女性にはまたかわいく似合うものです。それから数組来られましたが、すいた状態でケーブルに乗れました。
一番下の席に座り、正面の窓からどんどん標高が高くなっていく景色を観ながら上がっていきます。約5分で中間駅に到着です。そこからロープウェイに乗り換えです。10分ほど出発までに時間があります。乗り継ぎが今一だなあとアナウンスを聞いて外に出ると、大阪湾のいい景色が眼下に広がっていました。なるほど、これぐらいの余裕が必要ですね。
ロープウェイに乗り換えて5分で、摩耶山山頂に到着です。ロープウェイはちょっと怖いけど、素晴らしい景色でした。山頂駅のすぐ横が日本三大夜景の展望台になっていました。神戸・西宮・大阪と、大阪湾を取り巻く町の景色が広がっています。
夜景までまだ時間があるので、徒歩10分の天上寺まで行ってみることにしました。途中に小さな摩耶ホテルというのがありました。ここからの夜景も素晴らしいらしいです。昼食や夕食は予約制のようですが、こんな山の上で、六甲山のはずれなのに、駐車場はいっぱいです。・・な関係のカップルが、お忍びで・・いいかも?なんて思ってしまいました。
トレッキング姿の30代女性2人組・20代カップルの2組にすれ違っただけで、お寺に着きました。街路灯など何もない狭いハイキング道なので、日が落ちたら懐中電灯がないと歩けませんね。ここの境内からの眺めは、淡路島・明石大橋を中心に、淡路島の左向こうに徳島が見えているようです。右は明石・加古川が見えます。あの煙突群は別府の神戸製鋼などでしょう。姫路まで見えるようです。その沖には家島・・・すごいです。こんなに見えるなんて。
掬星台展望台の方に帰ります。再び掬星台に上がると、5時前のちょうど夕暮れという感じです。持ってきた菓子パンを2人で分け、ポットからコーヒーを注ぎ、ちょっと寒いけどいい雰囲気です。電飾されたクリスマスツリーの前で写真を撮り、赤ちゃんを連れたカップルの写真を撮ってあげ、いよいよ夜景を堪能です。
さすがに三大夜景です。最高のデートスポットじゃないでしょうか。特にクリスマスの寒い時期は夏よりは人は少ないでしょうし、イルミネーションの季節にこれほどのイルミネーションはありません。ケーブル・ロープウェイという道中もいいし、寒さが故に2人を近づけるような気がします。
冬場だし、数組のお若いカップルだけじゃないかなと思っていたのですが、この時間になると続々と人が上がってきます。バスで夜景ツアーが到着です。寂しすぎることもなく、混んでいる状態ではなく適当です。山頂駅の上に小さなレストランがありました。誰もお客さんがいませんでしたが、ここはいいかもしれません。駅から展望台までのプロムナードの道が光っています。光る石が散りばめられているようです。記念に1瓶、この石を買いました。400円です。
6時前下山することにしました。帰りは、ロープウェイもケーブルも満員でした。反対側の上がっていく方も多く、まだまだこれから掬星台はこれからのようです。ウィークデーは5時半が最終のようですが、土日祝日は7時半まで、12月は8時までケーブルは営業してるようです。
家に帰ってきてもまだ7時。家内と2人、いいひと時を過ごすことができました。

2007/12/3
今朝、新聞を読んでいると、関東は日大が勝ったようです。何の話かというと、関東学生アメリカン・フットボール・リーグの優勝決定戦の結果です。3年連続で学生日本一になっていた法政が、古豪日大に負けたそうです。これで、学生日本一を決める甲子園ボールは、KGvs日大という往年のライバル対決の復活ということになりました。
先週の日曜日は、法事で家内の実家の方に帰っていましたが、ちょうどその日は関西学生アメリカン・フットボール・リーグの優勝戦KGvsRits戦でした。私は中学からKGですが、校技がアメリカンフットボールの学校なので、体育の授業でアメリカンがありました。素人がタックルをすると怪我をする激しいスポーツなので、背中にタッチすれば、それでボールダウンというタッチフットボールのルールでやりました。
最初は、楕円形の変な形のボールを投げることが出来ませんでした。でも、オフェンス側の作戦で、いとも簡単にボールキャリーできる頭脳的なスポーツの虜になりました。ディフェンス側もオフェンスの作戦を読みきった時には、大きくロスさせてとても面白い。中学部出身者にはアメリカン好きが多いと思います。
月曜日、ヨット部の先輩から「リッツに買ったぞ。今年も甲子園ボールに応援に行くぞ」と連絡が入りました。12/16はもちろん参加です。甲子園ボールは、同窓会でもあります。卒業してこれだけ経っていても、懐かしい顔に必ず会います。ヨット部だけでも、毎年20人以上応援に来ていると思います。

去年は法政に負けてしまいましたが、今年は勝ってくれることを期待しましょう。昨日負けてしまった法政の選手のコメントも載っていましたが、スポーツというのは毎試合勝者と同じだけの敗者が生まれ、最終的にはほとんどが敗者になる世界ですね。悲しみや悔しさの積み重なった世界ですが、不思議と後に引く悲壮感のようなものがなく、しばらくすると自分を打ち破った勝者への賞賛が素直に出来るようになり、ライバルが出てこない試合がつまらなくさえある不思議な世界です。
何故かなあと考えると、それは試合に至るまでの本気の長い長い練習があるからじゃないかなあと思えてなりません。自分も精一杯練習したし、相手も同じ。お互いにその部分を共有できるからだと思います。学生スポーツは、勝者も敗者も決められた年限で引退します。これがまたいろんな感動を生みます。私はその引退に関連して、素晴らしいプレゼントをもらったことがあります。

-------
1.今、一書言いたいこと
 私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

 「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
 この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
 最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。
--------

次男が大学ヨット部を引退した時に作った記念誌に載っていました。引退する部員が毎年、クラブへの思いや思い出、後輩に残していく言葉を綴っているフルセイルという記念誌に、次男が書いていた数十ページのプロローグとエピローグに私達親に関することが書かれていました。
4年間のクラブで、多くのものを学び自信をつけたでしょう。それを次のステージに生かし、思考のベースに据えてこれからますます羽ばたいていくのでしょう。私はこのフルセイルが配られた彼のヨット部卒業レセプションに出席しました。その1週間前に家内が彼の下宿に行き、出来上がっていたフルセイルを1冊持って帰ってきましたが、「感動するからレセプションの後に読んだらいいよ」と言われていました。その夜、これを読みながら涙が後から後からあふれてきたのを覚えています。

リッツとKGの試合の1週前、長年のライバル京大vsKG戦を映像で見ました。今年は実力的に開きがあり、京都は追い込まれていきましたが、最後まで諦めることなく素晴らしい試合をしていました。最終第4Qで無常に過ぎていく時計を横目に、キャプテンでもある京大RBの選手が、フィールドに出ているプレーヤーに向かって大声で応援している姿が映し出されていました。彼の他に、この試合の敗戦で引退になるプレイヤーが何人も、涙を隠そうともせず、うなだれて下を向かず、まっすぐにフィールドに向かって声を出していました。
甲子園ボールが楽しみです。

2007/11/26
日曜日は、義理母の一周忌法事でした。年明けの2月には、弟の義理父一周忌、うちの父一周忌、義理父13回忌と法事が立て込みます。お寺さんの都合もありますが、うまく日程をずらして全部出席したいものです。うちの両親は北関東出身で、子供の頃、法事というものを経験してきませんでした。今になって思うのですが、適当に法事があることで、親戚とくに従兄弟との関係が密になるように思います。
家内と知り合ってすぐ実家を訪問し、とてもいいご両親だったので、一時デートで親戚周りをしました。おじさん・おばさん・家内の従兄弟達と話し、実は友達以外にこういう関係を望んでいたのかもしれないなと思いました。子供が生まれて、義姉一家と2家族でスキーに行ったり、キャンプしたり、うちの子達は私の経験できなかったことを経験出来ました。
今回、長男は急な学会参加とかで帰って来れませんでしたが、次男と3人で加古川の家内の実家近所のお寺さんに向かいました。義理母の兄弟、家内の従兄弟、義理父の従兄弟達、義理兄の兄弟達、たくさん集まってくれました。お寺さんも、もう知り合いみたいになってるし、家内関係の親戚とも気楽な関係になっています。法事というのは元は悲しい結果なのでしょうが、亡くなった者から、今を生きている者へのプレゼントのように思えます。
みんなでお墓に行き、料理屋さんで卓を囲んで和気藹々です。従兄弟の子が加茂周さんに誘われてKGサッカー部に入るとか、本家が新築したとか・・・いろんな話題に花が咲きました。故人のひ孫が無邪気に走り回り愛嬌を振りまいています。いいですね、こういうの。
その場の勢いで本家の新しい家を見学しに行くことになりました。本家は姫路なので1時間弱ほど走りました。2月に父が亡くなり、その葬儀の当日、義理従兄弟が亡くなったと知らせが入りました。数日後、また葬儀ということになりました。その時従兄弟が家の新築を進めていました。彼の最後の仕事でした。外観はコンクリートの打ちっぱなしに見えますが、木造の上にそういうパネルを貼っているそうです。本家のお婆さんのために、バリアフリーになっていて立派なお家でした。

2007/11/19
日曜日は琵琶湖に行ってきました。最初は仕事だったので、この日に予定されていたKGヨット部70周年記念にも欠席という返事を出していました。ところが、なんと先週になって12/2に変更になってしまいました。
さて、70周年パーティーに行こうかと思いましたが、会費1万円で着席パーティーで、もうとっくに申し込みは終わっており、先輩に連絡などしてしまうと、何とかしてやろうと各方面に迷惑をかけてしまいます。12/2は、代交代後初めて京大の練習を見に行くことにしていたので、これもキャンセルになってしまいます。またまたキャプテンから「また1年手伝ってください」と言われたので、どうしても年内に1度は行かねば・・・そこで、琵琶湖に行くことに決めました。
この日は同志社クルージングというヨット同好会主催のローカルレースです。6時半ごろ、ごそごそ支度をしていると、次男が帰ってきました。「今日、琵琶湖に行くわ」と伝えると、「お父さん、僕の代わりにレースに出えへん?朝まで飲んでて、今日琵琶湖に行くと勉強何も出来へんし・・・」と返って来ました。どうやら次男君はレースに参加予定だったようです。「寒いなあ」と思いながら、JSAF会員でもあるし、参加資格がクリアできるなら参加できるかも?とどっちに転んでもOKのように、一応ドライも車に入れました。
艇庫に着くと、イリグチ君やサトウ君が船のフィッティングをしています。「息子君は今日来れないって言ってたよ」と伝えると、「朝まで飲んでて行かれへんわ、どないしょ?」って朝電話が入ったそうです。新キャプテンのアキラ君とショウ君が艇庫を背に出艇前の集合です。3回生部員がみんなスナイプなので、2回生ショウ君が470チーフのようです。アキラ君から、マネさん2人とOB1人と一緒にレスキューということを言われ、マリーナに向かいます。水位が下がっているのか、前回よりさらに桟橋から船が遠く感じます。先に船に乗り、スターンの風下側のもやいをはずします。これでバウと桟橋が近づきます。すかさずバウに行ってマネさんの手を取って船にエスコートです。スターンにもう1本長いラインを用意するとかしないと、いつか誰かが落ちてしまいそうです。ただ落ちるだけなら笑い話で済みますが、落ちる時に船などに当たったら怪我をしてしまいます。でもまあ女の子と手をつなぐことが出来て嬉しかったかもです。
朝から結構風があるので、私がドライブして出艇です。すぐに運転を交代してレース前練習に合流します。時折10m/sオーバーの比叡山からのブローが入る絶好のコンディションです。エキサイトなかっ飛びシーンが見れそうです。しかし、本部船が出てくるのが遅いし、肝心の主催クラブ艇が、ハーバー待機のままです。「なんだあ?びびってるの?」という感じで遠方の湖面や、ハーバー、本部船を見ていました。AP旗とか揚がらずに、風が強いのでしばらく延期のようです。
この時間を使って燃料補給することにしました。4回生が引退して新体制になり、マネさんのレスキュー能力を上げないといけません。マネさんに出艇の手順を教えて、私のドライブを見てもらいながらレスキューを出したので、燃料計を見落としていました。出てから燃料計が1/4を切っているのに気づいていまいました。この気象ではレスキュー体制は大切なのに、燃料を気にしていたらレスキュー艇としてダメです。
船にいつも入ってる燃料ポリタンクが見つからないので、マリーナに船を入れてから一旦車で艇庫に戻ります。ポリタンク3個の燃料を入れると、燃料計は1/2を少し越えました。大体1日消費18Lということなので、燃料1/4で3日持ちそうです。じゃあ朝の残量でも2日は持ったのですね。
少し風が落ちてきたようです。マリーナの同志社の子に聞くと、11:30第1レース予定ということです。沖に出ましたが、同志社のレース艇がマリーナから出てくる気配がありません。本部船に近づくと動いています。もっと岸寄りにレース海面を作るのかなと、それに続いていましたが、どうもマリーナに近づきすぎです。インフレータブルに連絡すると、既にNH旗が揚がったようで、京大艇は練習に入っているようです。
いい風でいい練習になります。ブローは12m/sオーバーが入り、15m/sオーバーもたまに来ます。レース体制で昼食を沖に持って来ていることもあり、午後早めに上がる予定で昼も練習続行です。レスキュー体制充実のために少し練習艇を減らし、レスキュー乗員を増やしています。なかなかいい判断だと思います。
新スキッパーになったばかりのこの時期、しんどい風速ではありますが、ミスって沈しながらたくさん学べます。セールを数枚破り、ランチャーポールを1本曲げてしまいましたが、得るものは多かったと思います。
スナイプを追っかけていましたが、2回生スキッパーのシバタ君はなかなか上手です。3回生スキッパーについていっています。彼は1回生の夏まではホッパーでスキッパーをしていましたが、それ以降はクルーで、ちゃんとダブルハンド艇のスキッパーを始めてからまだ数回しか乗っていません。うまさ/練習回数は、相当高得点です。うまくなりそうです。スキッパーでのレース経験もあるアキラ君が1ランク上の安定感がありますが、下からの突き上げがあるスナイプチームはチーム力が急速に増しそうです。
2時を回り、何度も沈起こししている選手の体力的なこともあり、3時には練習終了かなあと思っていた頃、シバタ艇が沈しました。センターがセンターケースから抜けています。多分ラインで船からぶら下がっているのでしょう。何故かラダーも外れており、すぐに沈起こしできません。どうもマストが湖底に刺さってしまったようで難儀です。470に付いているインフラに連絡しましたが、470も1艇同じようにマストを刺しているようです。船を回そうとしたり、センターを入れようとしたり、ラダーを着けようとしたり、いろいろがんばっていましたが、うまく行きません。
2回生のシバタ君のドライに水が入ったようで一緒にがんばっていたスギちゃんからSOSです。ここでウエットで万全の体制でいるマロ君の登場です。まあ服装からしてマロ君しかいないのですが、「行きますよ」って威勢がいいです。レスキューを沈艇に近づけ、かっこよくではないですがそろっとダイブです。マネさんの目には、きっと「かっこいい!」と映ったでしょう。マロ君、ちょっと点数
稼いだかも?です。シバタ君をレスキューに上げました。
そこでサイドステイにラインを掛けて、レスキューから引っ張ることにしました。最初レスキューが沈艇の上にアンカーを打って、サイドステイからのラインをレスキューから引っ張る方法を取りましたが風が強く無理でした。レスキューで引っ張ることにして、微速前進で左右にステアリングを切りながら風位に立て続けます。マストが湖底から抜け、横倒しまでもってこれました。ここでメインセールを下ろします。こうすればセンターをぶら下がったままでも立てられるかなと思ったのですが、さすがにOB2人が沈起こし要員になったので、センターも挿せて沈艇が起きました。
470の沈艇も心配なので、再びメインを上げて自力で艇庫に戻るように指示して、470の方に急ぎます。ここで私のドライブもお役ご免でイリグチ君に交代です。服を脱いで毛布に包まったシバタ君は、風の入らないドッグハウスでもう寝ています。マネさんに唇の色を見ておくように言い、ほっぺたに触って体温を確かめてもらいます。唇はピンクで震えもないようなので、大丈夫だと思いましたが、この風でここまでよくがんばったから、この際マネさんに触ってもらうぐらいの特典があってもいいかなと思って指示しました。昔勉強した雪山サバイバルには、人肌で暖めるようなことも書いてあったように思うが、さすがにそんなことにはなりそうもありません。冗談でシバちゃんに「人肌で暖めてやれよ」と言いましたが、「さすがにそれは勘弁してください」と笑いながら言っていました。これも冗談で「やっぱりマネさんでしょう」なんて軽口が、スヤスヤ寝ているシバタ君を見ながら出ていましたが、ほんまにそんなことになったら、いろんな意味でクラブ存続の危機です。
470も立ち、こっちに全艇で走って来ます。2回生スキッパーイシイ艇の後ろを追いかけて艇庫方面に上がりました。前キャプテンカナヤ君がクルーをしており、この風ではまだまだ不安定な新人スキッパーのヒールバランスに、何度も水面に落とされながら良くやっています。イリグチ君が「なかなか交代せんなあ」と言う目でレスキューをドライブしています。私なら早々に「交代しよか」と言ってしまいそうです。カナヤ君ががんばるのは、自分のチームを支えてくれた後輩を少しでもうまくさせたいという気持ちからなんでしょう。こういうのは実際に一緒に乗ってきたかどうかで違うからなあ。
沈艇スナイプがメインを上げないままゆっくり帰っているので、再びそれを引っ張って帰りました。マリーナにレスキューを戻し艇庫に戻ります。マリーナでは先に桟橋に上がり、マネさんに手を差し出します。再び役得でした。ミーティングまで、結構楽しみなマネノートを読んでいると、秋に入ってくれた新マネさんのウチヤマさんもオザキさんもよく来てくれているようです。夏は2回生マユミさん1人、1回生ゼロだったので秋に再び部員募集した甲斐があったというものです。
この日は、マユミさんとウチヤマさんの2人来てくれましたが、マユミさんはよくしゃべって教えており、ウチヤマさんもドライブがどんどんうまくなってきています。そうそう、ウチヤマさんとオザキさんの名前を逆に覚えてしまっていました。名前を間違えてしまい失礼なことをしてしまいました。2度目に「オザキさん・・・」と堂々と話しかけた時、恐縮しながら「ウチヤマです。オザキさんはきれいな方で・・・」なんて言われました。2人もとてもきれいで、上回生は喜んで口にするし、同回生は密かに1回生コンパをしてるみたいだし、もっと自分に自信を持たなくちゃ。マユミさんは、はじめあまりしゃべらないなあと思っていましたが、最近みんなに慣れてきたのか良くしゃべり、笑うようになり、元々のお肌のきれいさにチャーミングさが加わってきました。
こんなに寒くて、雨まで降ってくる中、彼女達はよくやってくれています。イシイ君の悪戦苦闘を追いかけながら、「これを覚えていてね。1年後には素晴らしい走りが出来るようになるよ。惚れちゃうよ」なんて言っときました。いつも笑顔を絶やさない彼はいい感じで、好青年だなあと思います。イシイちゃん、がんばってね。
OBがたくさん来ていて、充実したレスキュー体制をバックにいい練習ができました。それにしても、なかなか起きない沈艇などやっかいな状況になっても、何かそれを楽しんでいるような私は何なのだろう?

2007/11/12
日曜日は、先週引退した京都ヨット部員達と西宮沖にクルージングに出ました。朝9時にハーバーセンターハウス1Fのマーメイド前で集合です。8時過ぎにハーバーに着き、エンジンを回すと快調にエンジンがかかりました。本を持って待ち合わせ場所に向かいながらゲストバースを見るともうエンデバーの姿が見えません。数日前に来たときはその雄姿があり、学生達に見せたかったのですが残念です。センターハウス横にクレーンが見えます。何かなあとそちらに回ると、頭にカメラの付いたヘルメット姿の外人さんが黄色の液体の入ったガラス瓶を持ってクレーンに吊られています。ガラス瓶の叩き割りアートの上空高くからそれを落とし、黄色のペンキがアートに加わりました。待ち合わせ場所にはダッチ君がいます。次々に部員がやってきます。2名の女子マネさんは、エスコート付きで来たようです。知らなかったのですが、JR西宮からはバスで25分もかかるようで、阪神西宮の西側と東側に停まるらしいです。阪神西宮からは10分だそうです。
船に乗り、ライジャケを着用し、トイレなどの説明をして東口から海に出ました。風が上がる予報もありましたが、西風3〜4m/sのちょうどいい風です。すぐにセールを上げてエンジンを切り、帆走開始です。女子マネージャーも2名おり、西風で風が上がるかもしれないので、ヒールを小さくするためにメインを1ポイントリーフし、ジェノアも半分ぐらいにファーリングする。タッキングしながら芦屋沖まで行き、赤灯台を目指す。セールを小さくしているので、大学ヨット部のフルトラピーズの470が追いついてくる。艇速5ノット。
赤灯台から沖に出る。西の人工島からあまり東に離れないように、波のブランケットを考えながら神戸空港の方に行く。風速が2m/sぐらいまで落ちたり、6m/sほどのブローが入ってきたりする。あまりに風が落ちた時はファーリングを解いてフルジェノアにするが、メインはリーフしたままです。沖にいる他のクルーザーはみんなフルセールで走っている。
北港方面にレース艇軍が見える。遠目でもセレッソの黒い艇体と、セールのセレッソマークが見える。そう言えば、朝船に行く時にテルミさんが声を掛けてきました。またサマーガールでレースに出るということだったので、IMSのポイントレースのようです。
レース観戦に向かうか神戸空港に向かうか考えましたが、そのまま神戸空港方面に向かいます。ステアリングを適当に交代し、写真を撮ったりお菓子を食べたり、みんなワイワイがやがや楽しそうです。女子マネさんも結構ステアリングが上手です。人数が多いので、お菓子の袋が次々空いていきます。「まだ昼前なのに、お菓子なんて食べたら昼食が入らんやろ」なんて思いましたが、しばらくするとおにぎりなどもりもり食べ始めます。
空港島の南海面を淡路島の方から、白波を伴ったブローが下りてきます。10m/sオーバーの風のようです。12時を回っていたのでハーバーの方に帰ることにしました。西宮沖に戻り、セールダウンして帰着です。ここで事件発生です。ハーバー西口手前でジブハリが切れてしまいました。修理しないとあきません。バースに戻り、「船洗います」と学生から声が上がり、バケツとブラシで洗い帰路に着きました。これから大阪に行ってみんなで飲むということです。この学年とは、来年の追い出しコンパで最後です。でもほとんどの学生がまだ勉強を続けるので、コーチとして残り、艇庫などで再び顔を合わせるでしょう。

2007/11/5
土曜の夜、家内と「続・三丁目の夕日」を観にいきました。先月「クローズドノート」を観にいった時、予告編でやってたので、次あれを観にいこうと約束していました。私が生まれ育った時代そのままだから、とても懐かしく、前作同様心に残る映画でした。
日曜日は学生ヨット全日本団体選で琵琶湖に行って来ました。観覧船が9時出発でしたので、7時に家を出発です。次男がジュリーで大会に詰めていましたが、車で行っていたので電車で行くことにしました。大会最終日後は代交代式でアルコールを飲むだろうし、もし早い時間に帰るようなら、私が運転して帰る場面もあるかなあと思ってです。車2台になっちゃうと困った状況になってしまいます。
本を読みながら電車に乗り、いつもの西大津の次の唐崎で下車し徒歩でマリーナに向かいます。1回生・OBさんと一緒に京大OB艇に乗せてもらって観戦です。2週間前の結婚式で一緒だった元マネさんヨシコさんも乗っています。あの時は着飾って見違えるようでしたが、この日はいつものヨシコさんです。
関大監督のタナカさんに声を掛けると、一緒に乗っていた京大OBさんから「大阪のタナカさんですよね」と話しかけられました。かつては国体大阪代表で一緒だったようです。狭いヨットの世界、どこかで繋がっています。KG観覧船にウメノ君が乗っています。早稲田の弟と母校を応援するために東京から来ているようです。遠くからでもイチノママとわかる元OP親観覧船が出ています。琵琶湖南湖には不釣合いの50フィートのデュフォーも出ています。
風待ちが続きます。支援艇の紫雲から秋に入った1回生のマネさんが2名移って来ました。1人とは3回目だけど、もう1人とは初めてです。上回生が今までいなかった1回生マネさんが入ってくれたことと、しかも美人であることで喜んでいたのでもう1人とも会って見たかったですが、う〜む美人です。「初めまして・・・」と得意の例の名詞渡しをして2人といろいろ話しました。選手のパフォーマンスも当然重要ですが、クラブ全体の総合力が成績に繋がります。マネさんの力はとても大きいと思っています。是非最後まで続けて欲しい。クラブというもので学生時代の想い出を作って欲しいし、その後の人生に役立つ何かがあると思う。
2レーススタートしましたが、結局風が安定せず、両方ともノーレースになりました。470は母校KGが優勝、スナイプと総合は地元京都産業が優勝しました。琵琶湖らしい微風で振れの大きなシリーズだったので地元有利だったようで、総合1・2・3は地元でした。
マリーナに帰ってきてから柳ヶ崎に移動しました。母校OB会長シバタさん・コウノ監督、選手達、みんな喜んでいました。前回優勝はシバタさんが監督時代の41年前に遡ります。元OP親、シンゴウさん・フルヤさん・マスカワさん・カミヤさん・ニシムラさん・キヤマさん・イチノさん・オグリさん・・・たくさん来ておられました。ヤッ君・ユウジ君・マサヒロ君・コウジ君・タカシ君、相変わらず明るくさらに美人になったモエミちゃん、イチノ君・・・元OPの子達がいっぱいいます。KGを引っ張ったウシオ君は、優勝という最高のパフォーマンスでヨット部を終えます。スナイプと総合2冠のマサヒロ君は、相変わらずニコニコ「やっちゃいました」って笑っています。KGウェブサイト担当マネのタカテラさんと話していると、イヌイさん・コバヤシさんが「また来てくださいよ〜」と寄って来ます。彼女達3人のマネさんは強力でした。この代が入ってきた新人勧誘の時いたけど、主将になったウシオ君は2度目の勧誘の時、自分も新人なのに、お笑い芸をして自分の仲間を増やそうとしていました。コバヤシ・イヌイ2人のマネさんも、試乗会後のたこ焼きでは、既にベテランマネのように具を持って各テーブルを回っていたのを思い出します。
当時、私がKGOB会ホームページを担当していましたが、現役HPが担当者の卒業で不活発になりました。現役HPよりOBHPの方がメインみたいになってしまい、これで現役は楽しいかなあといろいろ考えました。HP担当に名乗りを上げたタカテラさんと連絡し合いながら現役HPを立ち上げ、思い切ってOB会HPの更新を止め、大学HPからのリンクを現役HPに変更しました。しばらくしてもまだ「関学ヨット部」検索でOB会の方が上位にヒットするのに悩み、「どうしたら上位にランキングされますか」と連絡もらったことがありました。「更新頻度だよ。どんな些細なことでも更新したらいいよ」とアドバイスしました。その後「マネージャーブログを始めましたが、選手じゃないからヨットの事わからないから、何を書いていいか・・・」って来ました。「いいアイデアだね、すごいじゃない、マネさんみんなで交代して書いて、タカテラさんの負担を減らさないと続かないよ。OBだけじゃなくて、親御さんも見るから、ヨットに関係ないことでもいいよ。昼食のメニューを書いたらいいじゃない。それなら練習のある日はいつも書けるし、下宿してる親の体験者から言えば、ちゃんとした食事を摂ってるとわかるのはありがたいことだよ」と返しました。
タカテラさんに聞くと、マネブログは大好評のようで、最近は毎日300アクセスもあるそうです。こういうのはヨットの成績からは見えてこない部分です。でもこれが親御さんのKGヨット部への愛着につながり、マネさんが発表の場を持つことは自身の楽しみに繋がります。今回の優勝に大いに貢献したと思います。
柳ヶ崎YH駐車場屋上で閉会式が始まりました。次男はジュリーをしたので、ひな壇に腰掛けています。入賞校表彰が始まりました。総合上位3校には12人全員にメダルが授与されます。首にメダルを掛けてもらい嬉しそうです。
閉会式が終わり、「・・大学です。ありがとうございました」の声だしに続いて「ありがとうございました」の部員全員の声が、各校から上がります。次男がやってきてジュニア時代海外遠征時監督をしていただいたカミヤさんと話しています。
「こんにちは、お久しぶりです。コウちゃんに2回も笛吹いちゃいました」「いいよ、いいよ」。なんかいいです。私が親ではあるけれど、保育園の先生から始まって、学校の先生、ヨットクラブの先生やライバル達の親御さん、そして友達、いろんな人に助けられ助け、成長してきました。世代を越えて自然にこういう会話をしているわが子を見るのは、ほんま嬉しいものです。
艇庫に帰り、代交代式に出席することにしました。今までは出席できなかったけど、今回は出席です。全日本でのパフォーマンスには満足していないのかもしれないけど、長年の目標だった全日本出場をとうとう成し遂げた学年です。
数年前から段々強くなってきて、ここ3年は全日本出場次点の4位定着というところに来ました。多くの先輩達の上げてきた総合力がとうとう壁を破ったのでしょう。マネさん達も、食事担当から小型船舶免許を取って湖上練習サポートまで進化して成し遂げました。近年のスポーツセレクション優位の中、それなしにほんとよくがんばりました。
名?迷?司会のマロ君進行で会が始まりました。アマノ先生・監督さんの話に始まって、和気藹々の中、カナヤ君から4回生の挨拶に入ります。みんな心の声をしゃべっています。自分の時の事を思い出します。男子選手達の話や涙も素敵でしたが、それを聞いているトキワさん・カタオカさんが涙をぬぐっている姿の方に目が行きました。彼女達は、上の学年のマネさんがいなかったので、2年間このクラブの食生活筆頭にベースを支えてくれました。
長男が小1の運動会で選手宣誓をした時、私が初めて結婚式の主賓として挨拶した時、涙を流して長男や私を見ていた家内の姿が重なります。マネさんというか女性というのは、表に出ない部分があるけれど、大きく包んでいる存在。トキワさん、カタオカさんの挨拶で卒業生の挨拶は終わりです。2人の涙が伝わってきました。部員みんなが、こらえきれずに詰まっている姿をじっと待ち、声を掛け、最後は「ありがとう」の大きな声。ありがとうね、マネさん。マネリーダーとして2年間ありがとね、トキワさん。
続いてアキラ君から下級生の挨拶です。ミシマ君がいい味出してました。マロ君に続くのは彼のようです。次の最上級生マネさんはミサトさんとシラカワさん。シラカワさんの実家がうちの隣の市で、弟君がKG高なのでなんとなく親近感があります。最初から涙で大変でしたが、素敵な挨拶でした。自分に出来るか不安ながら、一生懸命やりますが伝わってきました。70余年続くヨット部という器をうまく楽しみながら、学生時代にしか味わえない貴重なものを体験して欲しいと思います。
次男に聞くと、月曜日は午後から授業らしく、飲んで月曜日に車で帰るようで、まだ挨拶の途中だけど、先に電車で帰ることにしました。この夜は、各校みんなこんな感じでしょう。やっぱり学生スポーツはいいなあとかみしめながら帰路に着きました。

2007/10/29
土曜日は、結婚式のために名古屋に行ってきました。次男君のヨット部の1年先輩のキャプテンが、同代のマネージャーさんと結婚しました。
昼に仕事場を出て、名古屋に向かいました。新幹線利用なのですが、新大阪-名古屋間のひかり・こだま利用に限り割安チケットがあり、それを旅行社で購入していました。新大阪-名古屋間は、のぞみ停車駅以外の駅も1駅か2駅なので、ほとんど所要時間が変わりません。ただ1時間に3本ぐらいしかひかり・こだまがないです。もう新幹線は、のぞみ主体のダイヤですね。
会場のホテルに着き、披露宴会場に上がると、係りの方が来られ、「式をしていますので、こちらへどうぞ」と式場の方に案内されました。式場に入ると、ちょうど神父さんが2人を前に例の一連の儀式をしているところでした。そして賛美歌・・・久しぶりに賛美歌を歌いました。もう何十回も歌った曲で、気持ちよく歌えました。中学の毎日の礼拝での楽しみの1つが、賛美歌でした。歌を歌うのは苦手な方ですが、何故か賛美歌は好きです。もう少し早く式場入りしていれば、最初の賛美歌も歌えたのに・・・
続いて披露宴です。式には、多くの若い友人達が参列していたのですが、披露宴には、中学・高校・大学の友人が数名ずつと、元ヨット部同輩と上下の学年数名ずつです。他は2次会に向けて準備したり英気を養ったり、いろいろなんでしょう。披露宴会場のこともあるでしょうが、友人達から親も知らない昔話を暴露されるのを怖がったのかもです。
2人の生い立ちのパワーポイントが流れ、製作者は新郎になっていました。そういえば、今春長男が友人の結婚式の紹介映像をパワーポイントで作っていました。その分、仲人さんがおられません。恋愛での結婚が多い最近の結婚式は、これが普通になっているのですね。
新郎の主賓の挨拶は、会社の上司さんです。続いて新婦側主賓挨拶は、彼女のゼミの先生でした。その方達と同じ中央前のテーブルに座った私が、続いて乾杯の音頭です。監督さんも来られていましたが、監督さんは話されないということで、クラブの事も話すことにしました。

『・・・
私も、24歳という割合若いときに結婚し、息子2人が学部卒業までしてくれた現在までを振り返ると、
どうせ、新米旦那と新米奥さんから始まり、子供が出来たらこれまた新米パパママからなので、肩肘張らずに、いつも笑顔で家族楽しくやっていればいいのかなと思います。
・・・
それから、旦那は一家の顔になりますが、いろんな事が起こり、いろんな決断を迫られ、不安になる時があります。そんな時、嫁さんが横で、一緒に考えてくれたり、「大丈夫だよ」という顔でいてくれることで、勇気100倍になります。今、私は子供達が学業を終え家を離れていく時期ですが、「やっぱり嫁さんやなあ」と思います。いい嫁さんが来てくれたなあと、感謝しています。「いい嫁さん、もろたんやから、大事にしいや」

少し、ヨット部のことを話したいと思います。
新郎新婦は、ヨット部で知り合ったのですが、皆様はヨットというのをご存知でしょうか?私もかつてヨット部員でした。知り合いにヨット部だと言うと、体力いるでしょ、とボートをこぐポーズをされます。最近は、ウインドサーフィンのポーズをされることもあります。
今回、荒川君を撮った写真を数枚、新郎新婦にプレゼントしようと引き伸ばしてきました。よろしければ、お回しいたしますので見てください。これがヨットです。

私は他大学ヨット部出身ですが、このヨット部は、とても自由な雰囲気があり、琵琶湖で練習している大学ヨット部関係者の知り合いに聞くと、ほとんどの方が、「琵琶湖で一番楽しくヨット部やってるんじゃないかな」と言います。そういう自由で自主的なクラブなので、その代その代で違う雰囲気があります。
彼は、俺について来いタイプのキャプテンではなくて、「・・君どう思う?」「・・君はどうよ」「あ、そうなの?」「俺ミスった」みたいに、同輩後輩隔てなく、周りをとてもリラックスさせて、しんどい練習の中に笑顔を運んでくるさわやかなキャプテンでした。
それを見ながら、「彼は、失敗やできなかったこと、小さなウソや悪さを親御さんに責められることなく、大らかに信じてもらって育てられたのだろうな」と思いました。多分、仕事でも周りの協力を自然に得てるんじゃないかなと思います。
新郎新婦の代のクラブ卒業コンパでは、次の主将が送る者を代表して、「3年間ありがとうございました。先輩方ともっと一緒にクラブをやりたかったです」と感極まった挨拶をしていました。彼らの代みんなが、後輩達から慕われていたのがわかります。
卒業コンパの最後に、京都駅前の広場に出て、OB・現役みんなで肩組んで円陣を作り、いつも歌っている「琵琶湖周航の歌」でお開きになります。感動してしまいます。
ついでに言うと、「琵琶湖周航の歌」というのは、同大ボート部で作られた歌で、ボート部が周航をしていない今、ボート部から分かれて出来たヨット部が、琵琶湖周航の伝統を受け継いで今も続けています。

私は、この結婚の話を新郎からもらうまで、2人の関係は全く知りませんでした。「え〜、俺の目は節穴か?」っと驚いて、現役部員にいろいろ聞きました。
どうやら、ヨット部の一連の引退興行の準備の時に急接近したようです。3月にクラブ卒業コンパ、俗に言う「追い出しコンパ」があります。現役はもちろん、多くのOBさんの参加がある、ヨット部の一大イベントです。
その時、「フルセイル」という立派に製本された記念誌が配られます。ヨット部生活の思い出や技術的なことなどが綴られた、引退部員からの置き土産です。このネタ作りと編集は相当大変な作業だと思います。
またOB参加の公式コンパの後、引退部員が現役部員を引き連れて京都の町を豪遊するそうです。その企画も費用も、全て引退部員持ちです。多分、秋にクラブを引退してからは、イベント企画と同時に、費用捻出のためのバイトにも精を出さないといけないのではないかと思います。
荒川君もこのイベントのために相当な資金を投資したと思われますが、今日の笑顔を見ると、大幅な黒字になったようです。
・・・』

新婦の大学友人達による音楽演奏、ヨット部員による歌やパフォーマンスが続きます。新婦が東京ディズニーランドが好きということで、新郎の先輩キャプテンが、照明を落とした部屋に、真っ黒な衣装をまとい、身体にクリスマス飾りの電飾をピカピカさせながら、例のパレードメロディーに乗って入ってきます。後輩が、頭にミッキーの髪飾りをして、海水パンツにライフジャケットという衣装で続きます。
新郎とコンビを組んでいた同回生が、「僕らはずっとコンビを組んで、誰よりも長い2人の時間を過ごしたのに・・・何故今彼の隣には別の人が・・・」と会場を笑わせます。
楽しい披露宴も、あっという間に終わりました。私はそのまま帰りましたが、若手はみんな2次会に流れていきます。次男が、「先輩、これからが本番ですよ」と新郎新婦に声を掛けています。2次会の幹事だそうで、前日からヨット部の仲間と集まって、いろいろ準備していたようです。

着飾った女性はいいです。新婦の友人達は、みんなきれいで、記念写真のとき、彼女達のきれいな髪を上から見ながら、思わず触ってみたくなりました。ヨット部員としての姿しか見ていなかったヨシコさん、エリコさん、ユキナガさん・・・みんなきれいです。
そして、やっぱりこの日の主役新婦さんは、格別でした。1年分の目の保養をさせてもらいました。


日曜日は、琵琶湖に行ってきました。
次の週は、学生全日本ヨット選手権団体戦で、4回生最後の練習です。ちょっと遅れて艇庫に着くと、ちょうど出艇するところで、インフレータブルに乗ることになりました。
慌てて着替えて船に行くと、レース艇の着艇を艇庫前ではなく、大会会場のハーバーにするそうで、レース艇出艇後、バーゼルを運ばないといけません。そこで私は徒歩でハーバーに向かい、向こうでバーゼル下ろしを手伝うことにしました。
ハーバーは、既に多くの出場校が入っています。私の母校もおり、2つ上の先輩である監督としばらく話しました。本番のレース海面の状況など、感じていることを話しました。5位以内は確実に、あわよくば優勝です。
バーゼルを積んでインフレータブルがやってきました。所定の場所に置き、練習海面に直行です。
朝の風が落ち、あまり風がありません。すぐ横に、早稲田がやってきました。まだ練習が始まっていないようなので、元兵庫ジュニアのタカシ君と、次男と一緒に南米選手権に遠征したコウジ君に声を掛けに行きました。今年の関東選手権を制したので、全日本も狙ってきています。「総合優勝、いけるね。がんばれよ」と声を掛けました。

昼、一旦艇庫に戻って昼食です。前日の披露宴でもらった着席表や2人のプロフィールが書かれたパンフと、チョコをマネさんたちに渡しました。部員も読んでいましたが、マネさんたちはとてもうらやましがっていました。
午後の出艇は、マネさんたちも出るので、ハードレスキューも出します。3回生のナオコさんが、先輩達がもうすぐいなくなり自分が最上級生だと思うと・・・としゃべっています。レスキューの運転なども、これからがんばらないといけません。風がないこともあり、新人マネさんが2人乗っているので、即席の実技講習です。1回生選手は例年、冬のオフの時期に船舶免許を取るのですが、マネさんもできるだけ多くこの免許を取ってほしいです。サポート体制で、随分クラブの成績が違うと思います。

練習を終え艇庫に帰って、マネノートを読みます。マネージャーの日記ですが、これが結構面白いです。ハーバーに着艇した選手達が艇庫に戻ってきます。と、相前後して、名古屋の結婚式に行っていた卒業生が数名やってきました。
今年の卒業生ユキナガさんが、2次会での2人のキスの決定的瞬間をチェキで撮っていて、早速それにコメントを付けて艇庫掲示板に貼っています。次男が映したデジカメ写真をマネさん中心にみんなで見ています。「あと数年したら・・・やっぱり恋愛で・・・お見合いかも・・・」
みんな揃いこの代最後の練習ミーティングです。全日本の段取りなどを話し合い決めていきます。悔いのないレースをして欲しいです。

2007/10/22
日曜日は、江ノ島に470級全日本を観にいきました。過去3年間、次男君の船の運搬でトレーラーを運転したりして大会に行っていましたが、今回は家内から「観にいきたい」という要望があり、そのお供でした。夜行バスで朝早く向こうに着いて、乗せてくれる船を捜して沖に出るか、朝一番の新幹線で鎌倉見物などして、レース終了のハーバーバックに間に合うように行くかの選択でしたが、家内は新幹線を選びました。
4時半起きで、新大阪まで車を走らせ、1日2000円の駐車場に置いて、6時ののぞみに乗りました。この日の行き帰りの切符は、出張の多い長男君に割引切符を買ってもらいました。その時、「飛行機なら貯まってるマイルで買えるから、プレゼントするよ」と言われました。子供達の成長は頼もしいです。
新横浜で下り、市営地下鉄で横浜まで出て、鎌倉まで再びJRです。鎌倉で江ノ電1日乗り放題切符580円を購入し、長谷駅まで。民家のすぐ横を掠めるように走ったり、道路を走る江ノ電は、とてもいい感じです。長谷駅から徒歩で長谷寺に向かいます。展望台のようなところがあり、湘南の海が広がっています。なんとかレースができるかなあというぐらいの軽風で、とてもいい天気で海がキラキラ光っています。
続いて鎌倉大仏に行きました。私は学生時代レースで来た時鎌倉大仏を観たことがありますが、家内は初めてです。東京に近いからでしょうか、外人さんが多いです。京都に比べたら小さな名所ですが、意外に人気なんだと、再認識しました。
再び江ノ電に乗り、江ノ島目指します。稲村ヶ崎付近から海が見え出し、小さな波でサーフィンをしています。江ノ島駅で下車し、江ノ島に向かって歩き出します。沿道の土産物屋さんを覗き、日差しのきつさを思い帽子を購入しました。江ノ島の橋を歩き出すと、ドラゴンボートの大会をしていました。なんとか祭りというのぼりが立ち、大音量で実況中継していました。江ノ島の東側沖には、多数のセールが見えます。小さなOPもたくさんがんばっています。
江ノ島観音まで上がり、沿道のみやげ物屋をうろちょろ。再び日差し対策でサングラスを購入。こういうところのサングラスは、すぐに壊れてしまうけど仕方ないね。紫外線は目をいためます。先輩方の白内障云々の話を聞くと、目は守らないと。12時少し前ですが、ここで江ノ島のもう一つの目的である「しらす丼」を食することにしました。ここに来たらこれを食べないとね。家内は初めての江ノ島なので、どうしても食べてもらわないと。
やっとこ江ノ島YHです。大会本部に上がりましたが、皆さんで払っています。海の様子を見ると、一番沖の集団が470レース集団のようです。白羊商会で帽子留めを買い、アケミさんに挨拶すると、「あら、サングラスなんか掛けてるからわからなかったわ。息子さん出てますよね」って言われてしまいました。
外に出ると、マツモトさんがおられました。「船に乗るかい?せっかく遠くから来たのに・・・乗せてあげるよ」と温かい言葉を受けましたが、ハーバーで待つことにします。イイズカさん御夫婦が息子君のレースで来られています。お父さんに無理言って、家内との2ショットを撮ってもらいました。
再び2Fから沖を見ると、カラフルなスピンがたくさん上がってこっちに向かってきます。1時が最終レーススタートなので、そろそろ帰着のようです。家内を誘ってハーバー入り口の防波堤まで行きます。しばらく待っていると、続々と470が入ってきました。「4058ター君はあれやわ。4025がカナヤ君、今のキャプテンだけど、彼も清風ヨット部だよ」と言うと、「声掛けたらいけないんでしょ?」と。「レース終わってるからいいよ」と言うと、大声で「ター君、ター君」って叫びだしました。ター君は気づかずに、船はどんどんスロープの方に向かって行きます。「スロープに着けるから、走っていったら」と言うと、走り出しました。後輩のいる前で大声で「ター君」というのもなんだけど、やっぱり嬉しいんだなとほほえましく見ていました。
最終日の第1レースは、下マーク回航のところで風がおかしくなりノーレースになったようです。シルバーフリートだけど上3位で回ったカナヤ君が、下をトップ回航したそうです。残念がってましたが、ヨットレースではよくあることです。来月の学連全日本で爆発してくれたらいいね。しばらくビデオを撮り、ハーバーの建物の日陰で座っていると、唐津のマツヤマさんが来られました。今回はレース運営で来られているそうです。
カワタ君がいつものニコニコで通りかかりました。マツナガ君が2日目から出ていないのが気になって訊いてみると、自分のサポートボートとぶつかってしまったそうです。でも広島の選考会の切符はすでに持ってるようで、よかったです。レースで負けてしまってオリンピックにいけないのは仕方ないですが、トラブルで断念というのはあまりに悔しいです。
サイトウお母さんが県連前でレース器具を片付けています。相変わらずきれいです。息子さんたちは去年この大会に出ていたのに今年はどうしたのかなと聞いてみると、来月頭に迫った学連全日本に向けてクラブでこっちには不参加を選択したようです。海に出ていたのかな?ご苦労様です。
ヤマシタさんがやってきました。相変わらず真っ黒な顔をしています。「あれ〜、来るんだったら言ってよ。いくらでも乗る船あるのに・・・」とこれまた温かい言葉をいただきました。私もいつも声をかけるけど、ヨットの知り合いは何処でもこういう感じでいいです。
白羊商会前のベンチで家内と並んで腰掛けていると、「こんにちは」とお嬢さんが声を掛けてきました。「あら、こんにちは。あなた、紹介するわ」。ター君のGFさんでした。長く付き合っていて、部屋には写真が貼ってあり、ヨーロッパに行ったとき持っていった家内のPCの待ち受け画面は、彼女のアップのままだし顔は見知っていましたが、本人に会うのは初めてです。
うちに来た時、家内やうちの親は会ったことがあり、親父は「いい子や」ととても気に入っていました。色白の美人で、とても感じのいいお嬢さんです。一足先に就職し、東京で働いているので、来るかなあ?と期待していたのですが、来てくれてよかったです。会社の旅行で土曜日から伊豆に行ってたようで、帰りの車で寝ていたら湘南の海が見えてきて驚いていると、会社の人がここまで送ってきてくれたそうです。
去年も応援に来ていただいたOBのコイケさんが来られました。横浜在住で開会式にも来られて選手達に食事をご馳走してくれたそうです。閉会式後も食べに行くことになっていたそうで、私たち夫婦も誘われました。ター君のクルーをしてくれたシバちゃんのお母さんが来られました。実家は名古屋なのですが、東京にいるお兄さんのところに用事があり、その後こちらに回ってこられたそうです。シバちゃんが、みんなの手前か、お母さんに対して敬語を使っていて、とてもおかしく「何で敬語やねん」と突っ込まれていました。いいですね、こういうの。大学のクラブといえども、選手達の最大のスポンサーで最も応援してくれるのは親御さんなので、レースの時は応援に来られたらなと思います。照れていても、息子さんや娘さんは喜んでいるだろうし、お子さんのがんばってる姿を見るのは、親にとって、とても嬉しいことです。
コンドウさんが、470全日本史上初の女性チャンピオンに輝き、2番はター君と同世代のイシカワ君でした。同じくカワタ君やタバタさん・マエダ君、もっと下のハラダ君やイチノ君がトップ10に顔を見せ、若手が大躍進でした。同世代の元OP選手が全国から来てるのでやってきたのだろうコウヤマさんやタバタさんがきれいになっていました。小中学生の頃の気軽さで話し始めても、年頃のいろんなもので圧倒されそうです。元々目力があったタバタさんなんかに見つめられると、おじさんはもうダメだわ。
閉会式後、私たち夫婦とGFさんもコイケさんと選手達に混じって食事しました。ところがお昼に食べたシラス丼がまだおなかを膨らませています。家内はくずきり、私はクリームソーダにしました。帰りの新幹線の時間もあり、私たちは中座し、江ノ島から小田急で藤沢に出て帰りました。帰りの新幹線で、「GFさんが来てくれてよかったね。気さくでいい子でしょ。ター君の好きなタイプだわ」って言ってました。私には息子達の好きなタイプというのはよくわかりませんが、家内に似てるかな?とも思いました。母親に似た女性が好きになるということは・・・いい日曜日でした。

2007/10/15
土曜日、家に帰ると長男君の靴と荷物が玄関にありました。日中家内から長男が帰ってくると連絡がありましたが、車が1台なかったので彼はどこかに行ってるようでした。階段のところには、長男に購入を頼んでおいた来週の江ノ島までの切符が置いてありました。てっきり出張ついでにこの切符を渡しに帰ってきたのだと思い、日曜日の墓参りに行くかな?と家内に聞くと、どうやら中高時代の友人の結婚式に出席するために帰ってきたようです。ということは、今夜は独身最後の夜を肴にみんなで盛り上がっているのか、披露宴の演出を話しているのか、そんなことろでしょう。結婚式は春の学部時代の友人の結婚式に続いて今年2度目じゃないかな。今回の子は彼が高校時代に、私が運転してスキーに連れて行った子のようです。そういう年齢になったということですね。
日曜日、次男は朝一番に琵琶湖に行きました。来週の全日本に向けて、最終チェックやら船の積み込みの準備やらをするのでしょう。7時を回り、隣の家に行き父の仏壇に手をあわせ、母に墓参り出発の用意を促し、戻って長男を起こします。我が家の息子君達は、目覚ましをかけても、必ず前日の晩に「明日・・時に起こして」というメッセージを食卓に残しています。母親への小さな甘えなのでしょうが、何故かそれを見ると、ほほえましく思えてなりません。家内もそれを楽しんでいるようで、「・・時だよ。起きてね」と彼らの部屋をノックします。
朝8時に家を出たので、お墓まで40分ほどで着きました。道中も霊園も都会を離れて気持ちいいですが、ちょっと遠いなあといつも思います。霊園の事務所で花を買い、再び車に乗って墓地まで上がり、父の眠る墓に着くと、彼岸花がきれいに咲いていました。先月のお彼岸に家内だけが来てくれたのですが、その時は何もなかったそうです。母に聞くと、彼岸花というのは球根が毎年少しずつ分裂増殖して、だんだん増えていくそうです。お墓の周りに2箇所、隣の弟のお墓の周りにも2箇所、数本の小さな集団を作って咲いています。それにしてもたった1ヶ月で、茎も何もなかったところから一気に花をつけるところまで成長するとは驚きの花です。巻き石に囲まれた石と砂利・砂だけの空間に、真っ赤な彼岸花はとてもきれいです。いい時に来ました。次は正月ですね。
帰り、道路沿いの道の駅に寄りました。ここには、父母が取れたて野菜をよく買っていたお店があります。10時から開店ということでしたが、30分も前なのにお店の前には列が出来ていました。なんかなあと思って敷地の横を見ると、私のようなお客さん目当てなのでしょうか?同じく取れたての野菜を売ってるお店があります。そちらで、柿やみかんを試食し、ナスやらなんだかんだ母が嬉しそうに買っていました。家に戻ると弟の車があります。母の部屋で弟の長男が買ってもらった将棋盤に駒を置き、将棋の本をめくりながら思案していました。まだ小学生ながら、既に老成している雰囲気を醸し出していました。仏壇の部屋では弟と長女が寝っころがっています。母は早速買ってきた果物を用意していました。
自宅に戻ると長男は既に出かけたらしく、家内が今朝新聞に折り込まれていた宝塚温泉のエステのチラシを持っています。「一緒に行く?」と誘われましたが、どうもエステという柄でもないので、もし混んでいたら帰ってくることも想定して送っていくことにしました。まず、ファミリーランド跡地を購入して出来たKG小学校を見に行きました。まだ工事中でフェンスに囲まれていましたが、一見
してKGという校舎でした。目指す温泉施設は、阪急宝塚駅から武庫川を渡った徒歩3分のところにあり、空いていたので帰りは電車にするということで、私はそのまま帰ってきました。最近流行の健康ランドのようなところだったら一緒に入ってもいいかなと思っていましたが、ジャグジー・エステというおしゃれな感じの施設で、ここはやはり女性客が圧倒的に多そうです。
家に戻り、昼食食べてから浜に行こうかなと思っていましたが、TV見ながら寝てしまい、起きたら夕方で家内が戻っていてビックリしました。次週は江ノ島に次男君のレース応援です。家内が「お土産、持って行くの?」と聞くので、「いらないよ。鎌倉見物でもしよう」と答え、「次男君の彼女来るのかな?東京にいるんでしょ」と家内に話しました。次男が家内のPCを海外に持って行ったときから待ち受け画面が彼女のアップになってるので顔はわかるのですが、まだ会ったことがありません。一緒に鎌倉見物なんてできたらなと思うのですが・・・「あなたまだ会ったことなかったね。本人が海に出ていないのに、親と一緒に見物は嫌がるんじゃないの?」と家内の意見でした。僕だったら平気だけど、まあいろいろだからね。父の葬儀の時、「誰か受付してくれる人いないかな?」と息子達に、暗にガールフレンドを呼ばないかなと期待したのですがそれはなりませんでした。まあ私も彼女の家に行って親に挨拶はすぐしたけど、うちの親父には後になってからだったから、男の子と父親はこんなものなんだろうな。

2007/10/8
土曜日の夜、家内と一緒に映画「クローズドノート」を観にいきました。小学校の先生志望の主人公の女子大生が、引っ越してきた部屋に残されていた一冊の日記帳。どうやら前この部屋に住んでいた方の物のようです。
気になって開いた日記から、小学校の先生だった前の住人の1年間の初担任生活が流れてきます。自分の何気ない「がんばろう」の言葉が重くて不登校になってしまった生徒の事、その生徒を励まそうと家庭に通うこと。そんな彼女を何気なく助けてくれる言葉をかけてくれる素敵な彼。先生の提案に賛同し、不登校になってしまった子がまた出てきやすい環境を整えるクラスのみんな。それを読みながら、主人公の学校生活・アルバイト・ちょっと気になる男性とのことがパラレルしていく。
竹内結子さんと沢尻エリカさんという好きな2人の女優さんが出ているので、どうしても観たかった映画でした。改めて2人とも、とても魅力的で、うまい俳優さんでした。この原作は、読んでみたいリストに載せていますがまだ読んでいませんでした。読んでみたいリストから買うリストに昇格のようです。

映画の舞台は京都でした。・・?、このレンガ作りは・・・、あれは、南禅寺境内を流れる琵琶湖疎水のレンガ作りアーチではないか?、やっぱり。家内を見ると、「こないだ行ったところね」と微笑まれました。「あの切り株のところだったね」と私から。先月、来年子供達がみんな巣立っていくので、ご苦労様のメッセージを刻んだクリスタルのりんごを家内にプレゼントしました。いろいろ考えて、ここで手渡すことにしました。ここの雰囲気で演出するためでした。
そこをこの映画で再び観れるなんて、なんという幸運。主人公の家が哲学の道を上がったところのようで、8月に家内と歩いたところが出てきます。さらに、進々堂と思われる喫茶店、下賀茂神社のところの加茂川が合流するところ、琵琶湖疏水が蹴上浄水場で分かれて市内に入っていく川にかかる橋・・・映画の落ち着いたゆっくりした、でも深い流れとともに、これらの景色が染み入ります。時々家内の横顔を見ると、美人度がアップしています。とてもいい気持ちで映画を観終えました。駐車場までの短い徒歩は、家内の手を握るのがいいのかもと思いながら、どうも照れてしまって出来ませんでした。今度はきっと。そして絶対。

日曜日は、琵琶湖で大学の練習の手伝いです。次男君と一緒に家を出発です。土曜日は12時過ぎに寝たので、運転は次男君にお任せです。朝はムラヤマ監督と一緒にレスキューに乗艇です。この日は、D社・リッツ・京産、それに福岡から遠征してきた福岡経済(旧第一経済)との合同練習です。福岡の和歌ちゃんや宮川君を1年ぶりぐらいに見ました。最初船もクルーの栗田さんもちゃんとわかったけど、スキッパーがどうも和歌ちゃんとはわかりませんでした。動作は和歌ちゃんなのですが、どうも体格が違うような・・・近づいて声を掛けたら、やっぱり和歌ちゃんでした。小中学生の時からかわいらしかったですが、それなりの年齢になったからだろうか、1年で随分美人に変身していました。相変わらず福岡経済は鋭くスピードがあり、段々と順位を上げていきます。
この風域では多分琵琶湖で一番速いだろう野田さんもあまり目立ちません。特にフリーが速いです。インフレータブルに乗り移って、フリーでの帆走を接近戦で見せてもらいました。センターの上げ方、ヒールバランス、メインの出す角度、クローズでのクルーの乗る位置も。
午後からはマネージャーさんが4名同乗です。昼休み、土曜日来てくれた新しい1回生マネさんがすごい美人だったという話を聞きましたが、この日、来てくれた新しいマネさんも中々の美人です。なんとかクラブに入って欲しいのと、私自身の楽しい時間のために、レース解説やその他もろもろの話をみんなでしました。福岡の私でも知ってる進学校の出身で、現1回生部員の同級生です。高校の時は話もしなかったそうですが、ビラ配りの縁で話をするようになったそうです。彼からヨットの魅力が書かれたメールが送られてきて見学にやってきたそうです。いいね、こういうの。彼女の友達も何人か誘ってるようなので、たくさん入ってみんなでクラブを楽しんで欲しいと思います。彼女は福岡からの下宿生ですが、学校へお弁当を持っていくほどの自炊派で、料理がストレス解消ということでした。こんなマネさんが入部してくれたら、合宿所での食生活も一段と充実しそうです。
土日と楽しい週末でした。

2007/10/1
週末は、新西宮でのドラゴン全日本でした。私の所属するダンシングクイーンチームに参加できないメンバーが出て、次男君に助っ人を頼むことになりました。さらに2日目の日曜日は、ブルードラゴンのメンバー不足のためにもう1人次男君の後輩を頼みました。
土曜日は、朝からいい風が入っていたようですが詳細は不明です。日曜日、8時にJR西宮にユキナガさんを迎えに行き、ハーバーに向かいます。なんか生憎の雨模様で、今一かなあと思いながら船に着くと、風がもう一つということもありAPが揚がりました。
小雨の中、関西ヨットクラブのウェットバーの屋外テーブルで雨宿りしていると、ランバージャックチームのシミズ君がやってきました。彼が小学生でヨットを始めた時、私はそこでコーチをしていました。彼はその後D社大ヨット部に進みました。現兵庫ジュニアの前身伊丹ヨットクラブ時代の伝説のスーパーレーサーです。続いてナガホリ君がやってきました。昨年も参加していたので来てるかなあと思っていましたが、昨年同様ユーグレンで参加していました。アオヤマさんが不参加ということで今年はスキッパーでの参加でした。OP上がりが3人、大学時代の琵琶湖勢が3人、昔話からユキナガさんの就職の話まで、いろんな話が飛び交い楽しいひと時でした。
雨が止んだ11時過ぎにAPが降り出艇です。DQオーナーがブルードラゴンのスキッパーに転出したので、DQは私と次男君とユキナガさんということになりました。次男君はドラゴン2日目、ユキナガさんは初めてということで、風が上がらないことを願いましたが、2人はさすがに470屋で、若いこともあるのでしょう、すぐに動作を飲み込みます。終始ブローで3m/sどまりでしたが、最後の方はせめて4m/sは吹いてユキナガさんにドラゴンのフルバランスを体験させてあげたいなと思うようになりました。
結果は8位で去年と同じようなものでした。閉会式でアライ会長さんが強調されていましたが、昭和36年というから東京オリンピック前から続いている由緒ある全日本で、それに参加しているのはなかなか楽しいものです。1レース目はスタートライン付近でトラブルで遅れている艇のために、一旦APを揚げて待ったり、閉会式で、何年ぶりかのトップを引いたオオノさんが冷やかされ祝福され、相変わらずフレンドリーなクラスです。
この日、東京に向かう次男君は、同じく東京に帰るナガホリ君と同行できたらいいなと思っていましたが、ナガホリ君は車で来ていたようで、閉会式前に帰路に着いたようです。JR西宮に次男君とユキナガさんを送り、楽しい1日を終えました。

2007/9/24
日曜日は琵琶湖に行ってきました。1ヶ月ぶりです。朝艇庫に着いて、まず目にしたのは、艇庫前の藻の群生です。まるでその上を歩けるんじゃないかと思えるほど、湖底から生えた藻が湖面まで達し島のようになっています。午前中は風がなく陸上待機です。ミーティング後、整備などそれぞれの仕事に取り掛かりますが、帰着艇砂浜に打ちあがった藻を掃除する選手もいました。変な色になり、変なにおいも発しているようで、そちらには行きたくないですね。
マネージャーさんが食料片手に3人やってきて、艇庫に女性の声が混じると、私だけかもしれませんがそれだけで華やぎます。昼食後出艇です。次男の2つ上の470リーダーモチヅキさんが来られて、2人でレスキューボートに乗ります。モチヅキさんは、3年間の東京勤務から地元京都支店に転勤になり、3年ぐらいはここにいそうです。ほとんどの若手OBが東京に吸い寄せられるので、貴重な人材です。実家が大津ということで、コーチとしてどんどん来て欲しいですね。というかそれなりのポジションについてもらって、来なあかんのちゃうやろか。モチヅキさんは初めてのニュー紫雲と言うことなので、私がドライブしてハーバーを出ました。練習海面に着くと運転を交代し、バウでビデオ班をします。ヨット部は水の上の競技なので、絵になるのに写真などが少ないです。過去かなりの量の写真をみんなに提供してきましたが、ビデオも提供しようと思います。クラブのHPにリンクさせてもいいし、記念に残しておくと将来の楽しみになりそうです。モチヅキさんはさすがに元選手だけあって、艇ギリギリにレスキューボートをコントロールしてくれます。至近距離からビデオ撮影できました。
470の艇体帆走練習と共の北に上がっていくと、同志社と白スピンが数艇練習をしています。ひょっとするとと思ってみていると、どうやらKGのようです。関西ブロック予選前だけど、今年の全日本開催地琵琶湖練習に来ているようです。今年の琵琶湖ブロックを制覇した同志社との練習は、予選前のレベルアップにもプラスになるでしょう。月曜日までの連休をうまく使っているようです。その後ショートラウンディングの練習をしていると、北から白スピンが1艇だけ下りて来ます。「ひょっとすると柳ヶ崎に帰るのかな」と思い様子を見に行きました。KGイチノ組でした。「練習を終えるのなら10分でも京都と走り合わせ願えないかな?」と声をかけたが、こっちの風の様子を見に来ただけのようで実現しませんでした。
これから全日本本番に向けて他地域の強豪校がどんどんやってくると思いますが、一緒に練習することは、今年に限らず将来に渡って有意義です。全日本常連校との交流は、意識面での変化に繋がるはずです。京都の弱点である強風克服に繋がればと思います。海なので琵琶湖よりは波が出る西宮は、距離も近く費用面でも負担が少ない。昔定期戦があったKGや神戸、現在一番身近な大阪との定期戦や合同練習が復活したらと思います。時々口にしていますが、やるのは部員で、勉強やアルバイトなどいろんな関係があります。
4時を回った頃、瀬田の方の陸上にあった積乱雲の下の黒雲が、琵琶湖に吹いている北風に逆らって湖面上空にやってきました。かなりの雨が降っているようで、瀬田の橋が白く煙って見えなくなってきました。ずっと気持ち悪いその雲が気になって空を見上げていたのですが、これは良くない傾向です。南で練習していたヨットが瀬田の方からの風を受けはじめました。まだ練習時間は
残っているので、全艇にメインを下ろす指示を出しました。どのぐらいの雨風かわかりませんが、短時間だったらやり過ごして練習再開しようと思いました。無理して練習しマテリアルを破損しては意味がありません。どんどん風雨が近づいてきます。「こりゃやばいなあ」と思い、全艇艇庫バックの指示を出しました。
白波が雨と共に近づいてきて、まだ練習していた他校の470が沈します。メインを下ろしているので、鈍足だけどどんな風が来ても浮いているでしょう。急激な風速アップと白波でビビッてジブをシバーさせ、ジブシートをからませているスナイプが1艇。「ビビルな。ジブはらませないと不安定になる。ゆっくり帰れ」と指示し、インフレータブルにはマーク回収を指示するが、無理そうならいいからと言っておく。海ではないのでそれほど波が立たないからまあ安心ですがマーク回収に無理する必要はありません。。インフラを最後に艇庫前まで帰ってきましたが、ここで大きな障害物です。3艇はスムーズに藻を回避して着艇しましたが、他艇は藻に掴まって全く動きません。練習している間も、流れている藻を定期的に取る動作が必要で、ほんまにこんなんで全日本できるんかと思ってしまいました。琵琶湖の連中は慣れているからいいものの、他水域の学生には不評になること確実です。
秋が進んで藻が消えるか、藻を根こそぎ何とかすることを考えないと、藻や水草が一面にびっちり張っている古池のように、将来なってしまわないだろうか心配です。岸から結構離れても、船から下を見ると藻が生い茂っている様子が見えます。これって異常じゃないかなあ。
後はインフラに任せてドライバーを交代してハーバーに戻りました。ちょうどブースに入れるところで再び大雨がやってきて、全身ビショビショになってしまいました。バックにはカッパが入っていますが、こんな時にそれを着ている暇はありません。結構難しいレスキューボートのバース入れにミスって当ててしまっては申し訳ないです。
艇庫に戻るとA級2艇積みのトラックが来ていました。ウエダさんノダさんがいます。柳ヶ崎で京都のA級を下ろし、隣の艇庫に外大のを下ろしに来られたようです。次は同志社に向かうようです。北港でレースがあったようです。フジワラさんもミーティングに参加するために来られていました。全体ミーティングで、出着艇でどうやってうまく藻をクリアするかを上級生がレクチャしていました。琵琶湖ならではです。

2007/9/17
日曜日は、最初ドラゴンの練習予定が入っていました。シブカワさんからの連絡に、「行けます」と答えていましたが、正式な練習連絡がないのでキャンセルのようです。そこで久しぶりにクルージングボートの方に行ってみることにしました。どなたか来られれば外に出てもいいし、エンジンの冷却水の様子を見てもいいしと、藤沢周平の本を持って出かけました。
10時ぐらいにハーバーに着いて、ドラゴン置き場を見ると、他艇も含めてオーニングがかかったままです。うちの艇の練習だけがなくなったというより、ドラゴンフリートの全日本前の走り合わせ練習自体がなくなったからのようです。最初の予定通り桟橋に向かうとクルージング艇が既に出ているようです。ドラゴンの整備でもするかと桟橋を歩いていると、「カミヤさん」とテルミさんの声が聞こえてきました。プラトウ・ワールドの話などをしていると、KGの監督・コーチ・現役がゾロゾロと歩いてきます。ツインスターで出ていたのでしょうか?
シブカワさんが桟橋をやってきました。「エルシノアはもう出ているようですよ。サワダ艇が練習するみたいですけど」「冷やかしに行こか」と言うことで、上下架桟橋のサワダ艇に向かいます。サワダ艇を送り出してドラゴンの整備にかかります。こないだのレースで下回航の時うまくファーラーが回らず、ジブ展開が遅れたことを話すと、「ファーラーを巻く回数の問題と、ランナーを回航前に更にガツンと入れること」と指摘されました。ランナーを思いっきり入れてフォアステイを張ってやると、スムーズにファーラーが回るそうです。次やってみましょう。スピンポールのショックコードがくたびれているので、それを買いに一点鐘を冷やかしに行くことになりました。
先に行き、失くしてしまったシャックルキーを買っていると、「オギノさんのX35を出すみたいよ。一緒に乗ってこいや」とシブカワさんがやってきました。「整備は途中でいいんですか?乗りたいです」。オギノさんはじめ甲南のOBさんが4人おられます。「どうぞ、どうぞ」ということで、前々から乗りたかったX35ODに乗ることになりました。Xヨットの新しいワンデザインクラスの35フィートレーシングヨットで、135Eが輸入しています。春のフローティングボートショーでTACKが展示されており、シンプルな内装とラットの軽さ・速そうな船型と魅力的な船で気に入っていました。
さすがにレーシングヨット、シンプルにマストとブームが立っているだけです。135の方の指導の下、メインとジブを船内から出してきてセットします。これがまた重くて一苦労です。まだ慣れていないので小一時間、これだけでグロッキーです。オギノさんのヘルムで西出口から出て、すぐにセールを上げます。4m/sほどの風の中、クローズの角度で赤灯台を目指します。キールが深く重いのでしょう、フルセールでもエ号よりヒールしない感じで艇速が伸びます。すぐに6ノットを越え7ノット付近で気持ちいいです。赤灯台を交わしてスピンを上げると8ノットを越えます。速いです。IMSのレースをしているようで、スターボの一団がやってきます。目立つブラックのセレッソは49フィートで少し大きめですが、最もヒールしていません。風速は5m/sほどですが、まだまだ余裕がありそうです。IMSのレース艇はシャープです。
一文字の尼崎側白灯台前でスピンを下ろし、再びクローズでハーバーを目指します。それを待っていたように、六甲山から流れてきた黒雲から小雨と共にブローが入ってきます。8m/sを越えます。最近のレース艇らしく、オーバーラップの少ないジブは楽に内側に引き込めます。メイン・ジブとも浅いセールなので、のぼり角度も相当いいのでしょう。この角度でこのスピードで走るなんて・・・いい船です。ハーバーに戻り1Fでコーヒーを飲んで解散です。
エ号がまだ帰って来ないなあと思いながら中途半端にしてしまったドラゴンを見に行くと、オオノさんが整備をしていました。シブカワさんと会えたようで、私がオギノさんの船に乗っていたことを知っておられました。ゴソゴソ話していると、この日何度目かの六甲山から流れてきた黒雲と共に15m/sオーバーの風が入ってきました。ハーバーの外は白波だらけになっています。
エ号が心配になってキンノさんやモリタさんに電話しながら桟橋の方を見ると、既に着艇している様子です。ギリギリのタイミングだったようです。シャワーを浴びてウェットバーにおられるということで、そちらに向かいました。土曜日晩にあった中学部同窓会で会った方をゲストに、シンタニさん・キンノさん・モリタさんで瀬戸大橋の写真を撮りに行っていたそうです。スピンを上げようとセットしてスピンハリを引くと、無常にもシートだけがマストに上がっていったそうで、マストに登る羽目になってしまったと笑っておられました。
「さて帰ろうか」とディンギーヤードの方に歩いて行くと、関大艇庫前にタナカさん夫婦やミサキちゃんが目に入りました。関大はファミリーデイだったようです。OPワールドの話などをして、家路に着きました。浅い茶色のセールを持つ最新レース艇に乗れて、ラッキーな日でした。

2007/9/10
日曜日は、先月に続き京都の永観堂さんに行ってきました。亡くなった家内の両親と家内の父方のお爺さんの分骨をするためです。家内の実家のお寺さんの本家が永観堂さんで、家内が小学校の時亡くなったお婆さんは既に分骨されています。家内のお爺さんは、私の母方のお爺さんが母の3才のときに亡くなったのと同じように、義父が子供の頃亡くなっています。
去年のクリスマスに亡くなった義理母は、同居していた家内の父方のお婆さんが亡くなり分骨してから一度も永観堂さんに行くことがなく、そのことを時々口にしていたそうです。義理姉と義理兄がお婆さんと同じところに分骨しようと思い立ったようで、家内に意見を求めてきました。家内が反対するわけがなく、3人同時に分骨することになりました。
義理兄は三男さんで、男の子がいないので跡取りがいなくなった家内の実家の近所に住み、家内の実家の面倒をみてくれていました。この義兄がいるから義姉も十分に義理母のサポートをしながら暮らせました。義理兄はしっかり仕事はしますが、サザエさんのマスオさんのように飄々としています。こういう人が結局一番頼りになり、立派な生き方なんだろうなといつも感じています。
分骨自体は1時間ほどですので、あとは兄夫婦と京都散策というのが普通のパターンなのでしょうが、午後から兄夫婦の大学の同窓会が京都であります。兄夫婦は同じ学校の同じ学科の同級生です。こういう夫婦は同窓会のコアメンバーになるのでしょうが、意外にも同窓会に行くのは初めてということでした。兄は卒業後また別の学校に通ったので、そっちの同窓会にはよく行っていたようです。次の学校に通っていたときは義姉と結婚しており長女もいました。そんな時私は家内と知り合い、デートで家内の実家から義姉家族の住む浜松の家まで生活用品を運んだことも1度や2度ではありません。
朝10時に永観堂さんに集合で、午後から家内と2人ということになったので、メニューを考えました。こないだは大文字火床登山と銀閣寺から哲学の道散策で結構楽しかったので、今度は金閣寺かなとも思ったのですが、京都の南東に位置する永観堂から北西の金閣寺まではちと遠いです。結局、前から行ってみたかったTVドラマなどに良く出てくる2つの名所に行くことにしました。
そして、もう一つの考えが頭に浮かびました。来年次男が就職し、とうとう我が家の子育てはおしまいです。何か記念になるものを家内にプレゼントしたくなりました。TVドラマの主役になった気分で、あの場所で渡せたら・・・
朝7時に家を出発です。バスでJRまで出て、京都駅の次の山科駅で京都地下鉄に乗り換えです。「蹴上」といういかにも京都らしい地名の駅で下車。この地下鉄は相当深いところを走っているようです。エスカレーターを3つも下り、1つは2つ分ぐらいの長さです。何でかなあと考えて思いついたのが、埋蔵文化財を傷つけないようにかなあということでした。京都なんて何処を掘っても文化財に当たりそうだもんなあ。真意の程はわかりません。
蹴上駅を地上に出ると、道路を挟んで目の前が浄水場です。明治時代、京都再生の起死回生の巨大工事琵琶湖疏水で作られた浄水場の当時の雰囲気を真似ているのか、レンガつくりのシックな感じの建物です。上の方が、植え込みの向こうに見えています。目指すインクラインは何処にも見えません。さてと・・・四方を見渡し、こっちだろうなとその道路の坂を下っていきます。50m程歩くと右手にレンガで作られた小さなトンネルがあります。「南禅寺方面」と書いてあります。方角的には合ってるのでそこをくぐりそのまま進むとすぐに南禅寺の雰囲気が正面に見えます。
向こうからゴミ袋とゴミつまみを持った数名の方が、ゴミをつまみながら歩いてきます。町内会の人でしょうか・・・こういうので観光地京都の美観を保っているのですね。京都に落ちる莫大な観光のお金が京都に住む方を巡っていくのでしょうが、こんな地道な努力の賜物なんでしょうね。大文字登山でゴミが1つも落ちていないのに驚きましたが、京都全体がこういう雰囲気なんでしょう。
インクラインから南禅寺疎水アーチを歩いて永観堂という当初の目論見が道がわからずおかしくなってしまいましたが、あれは絶対今日あそこでやらなければなりません。南禅寺に入り大門から奥に入っていきます。目指す琵琶湖疏水アーチが見えてきました。ローマの治水を真似たそうですが、レンガでアーチ橋が組んであり、その上を疎水が流れています。「ここ見たことある」「でしょ、でしょ」。琵琶湖疏水を銀閣寺方面に流すために、南禅寺境内を通らなければなりません。いろいろ考えてこういう設計になったのでしょう。作られた当初の明治時代では、仏教の巨大伽藍の境内に当時最新鋭のレンガ建造物というミスマッチだったのでしょうが、現在は苔むしたレンガアーチ橋が南禅寺に別の魅力を作っています。既に何組かのカップルがそれを背景にカメラに収まっています。
アーチ橋の裏に回り、そこから疎水上に上がりました。右はアーチ橋の上、左はインクライン方面です。左に折れ、疎水沿いを歩き、インクラインまでやってきました。ほんの5分ほどです。大津から琵琶湖の水を京都に運ぶ運河は、船も通れます。ここまで来た船は高低差を調整するため、鉄路を走るトロッコに乗せられます。そして京都側に下りて再び疎水に浮かぶという風になっています。今はもう使われていませんが、その鉄路をトロッコ・船が残っています。その横の小さな公園には、この巨大土木工事を指揮した田邉朔郎さんの銅像が建っています。
東大の学生だった田邊さんは、琵琶湖の水を京都に引くという大工事を考え論文にしました。明治になり日本の中心が東京に移り地盤沈下していく京都を何とかしようと知事さんが、この論文に目をつけ卒業と同時に田邊さんを総責任者とする巨大プロジェクトを立ち上げました。日本で初めての水力発電所をこの疎水に作り、この電力で日本発の電車になる京都市内電車を走らせ、京都のネックの水をふんだんに引いて、産業復興に尽くしました。日本初がいくつもある最新鋭工事でした。この工事が完成した時、田邊さんはまだ28才だったそうです。なんかすごく惹かれてしまいます。
再び元の南禅寺疎水アーチ橋の下に戻りました。切り株に背負ってきたリュックを置き、「雅代ちゃん、プレゼントがあるねん」と四角い物を渡しました。「私に。重いね、何かな?」と袋を開け始めました。12cm角ほどのビロード生地の立方体の箱が出てきました。それを開けると緩衝材に包まれた透明のクリスタルりんごが出てきます。「幸せのクリスタルりんごやねん」勝手に命名してしまいました。「ありがとう」「そこに書いてあるメッセージ読んでみて」「雅代ちゃんと家庭を持って28年、素敵な家族をありがとう。良成・・・」。「来年でター君も卒業やね。今までほんまありがとうね。そしてこれからも・・・」「ありがとう」。「重かったわねえ。家で渡してくれてもよかったのに」「・・・」。そうじゃないんだよな。これが男のロマンチックなところでしょうか。リアルで行動する女性とロマンで動く男との違いでしょうか。
何かプレゼントしようといろいろ考えました。以前何かのTVドラマでガラスのりんごが効果的に使われており、「幸せを呼ぶりんご」みたいに私の心に伝わってきていたので、それを思い出しました。あんなりんご売ってないのかなあ?と思い調べると、売ってました。しかもメッセージを彫ることができます。結婚の記念品として紹介されていましたが、早速メッセージの字数など問い合わせ、作ってもらいました。我ながら素敵なプレゼントになったように思います。
永観堂前9:45という待ち合わせ時間にぎりぎりです。急いで南禅寺境内を横切り隣の永観堂に向かいます。湯豆腐屋さんの前を過ぎ、東山中高前を通る頃、義姉に5分ほど遅れると電話しました。すると向こうはホテル前でタクシーに乗ったとこということで、結局私達の方が先に着きました。ポロシャツから半そでシャツ・ネクタイに着替えをして待ちます。
義姉夫婦と姪家族4人とで拝観料を払うところに行きます。分骨の予約をしている旨伝えると、拝観料は無料だそうです。寺院行事関係者の入り口に向かうとお坊さんが迎えに出てこられます。スリッパに履き替え大きな部屋に通されました。そこにも立派な像などがあるので、そこで分骨の儀式を行うのかと思い、分骨される義理母などの名前を書きながら、儀式が始まるまえにと、全員で写真を撮ります。
義理兄にDVDを渡しました。ここ2ヶ月ほど、夜少しずつ作業している昔のVHSビデオのDVDデジタルダビングしています。ここで出てきた義姉家族とのキャンプなどのビデオをコピーしたものです。姪が2人いるので彼女たちの家にも1枚ずつ計3枚です。来ている姪が、「え〜、私がいくつの時の〜」と喜んでいます。うちの長男君が0才のときのお正月からだから彼女はまだ3才、妹が1才です。
「ご用意が整いましたので、こちらにどうぞ」とお坊さんについていくと、本堂に通されました。ご本尊の前の椅子に座りしばらくすると、開け放されたふすまから廊下を車椅子で押されて来られる高尚さん一行がやってきます。なんと管長さんが読経して下さいました。本尊の前で10人弱のお坊さんが読経するのはさすがに深く響きます。そんな雰囲気の中焼香します。最後に管長さんが立たれて、ありがたいお言葉をかけてくれます。と、ここまでは堅苦しい感じでもありましたが、一転管長さんの言葉の雰囲気が変わりました。
「加古川からですか。遠いところご苦労様でした」。いろいろ分骨された義理母などのことを聞き、山口出身というご自身の事も語られました。当時山口の田舎では土葬が一般的でしたが、「あんたが坊さんになったから、死んだら火葬にして京都に運び、あんたに供養してもらいたい」とお母さんは言っていたそうです。お母さんが亡くなり火葬準備をしていたら、翌日から大変な大雨で土葬するしかなかったそうです。数日後、赤土と共に遺体を掘り出し、土と共に火葬したそうです。とても悲しい経験だったそうです。「今日このように分骨までされたご先祖はとても幸せな方々です。これから毎日・毎月こちらで読経させていただきます。京都に来られる時があれば、いつでも納骨堂にお寄りいただきご先祖に手を合わせてあげてください。その旨言って頂くと拝観料は無料ですから」と気さくに話されました。
義姉は、「自分が喪主だけど、主人が良くしてくれてこういうことが出来ました」と管長さんにしゃべっています。「毎朝晩、仏壇のご先祖さんに手を合わせてくださいね。ご先祖様の1人でも欠けていれば、私達は今ここに存在しません。小さなお子さんがみえていますが、親のこういう姿を見て育つと先祖を大事にする家庭を作られ、それが家の繁栄につながります。お母さんお父さんも未来永劫大事にされますよ」。
とてもいい経験をさせてもらいました。最初観光客さんが本堂の三方の廊下を巡っているのが気になりましたが、読経が始まると気にならなくなりました。1人7万円、3人で21万円の費用でしたが、まずなくなってしまうことはないこんな大きなお寺で、毎日読経されて永代供養されると思えば、かなりお得な費用です。義姉がしきりに、京都に下宿しているのに参加できなかった甥に聞いて欲しかったと言っています。私も同様です。東京の長男は無理だったとしても、こっちにいる次男は同席させてやりたかったです。でも次男は土曜日からヨットに行っています。家内に聞くとレースだということですので、470全日本予選に出ているのでしょう。週の半ばにも行っていたので、その練習だったようです。時間を作って何かを一生懸命しているのは、親にとって一番嬉しいことです。
姪家族はホテルに戻って昼食後家に帰るようです。義姉夫婦と一緒に蹴上駅まで歩き、私達は次の目的地に向かいます。次はお正月の参拝人数がいつもTVで発表される伏見稲荷です。全国のお稲荷さんの総本山です。お稲荷さんと言えばキツネですが、何故五穀豊穣の神様がキツネなのかという疑問と、TVドラマに良く出る千本鳥居をくぐってみたいという願望をかなえるために行くことにしました。TVドラマでずらっと並ぶ朱色の鳥居を歩くシーンを撮影するのは、多分東京の稲荷神社が多いと思うのですが、こっちは本家だからもっといいかもと。
京都地下鉄で2駅で山科まで戻り、JRで1駅京都。JR奈良線で2駅で稲荷駅です。駅を出て20mほど戻ると右手に大鳥居が見えます。おなかが空いたので、大鳥居右手のちょっと前の市役所という建物(神社の事務的なものをやってる建物かな?)の中のこれまたちょっと前の食堂というような雰囲気のレストランで昼食にしました。
本殿にお参りし、千本鳥居の入り口に。うわああれです。TVで見るアレです。朱色の鳥居がずっと並ぶのは壮観です。まず家内をモデルに写真を撮り、お山に向かって歩き始めます。木に覆われてさらに鳥居に囲まれた道は、きっと真夏でも涼しいのではないかなあ。振り返れば、鳥居の裏に、建立年月と建立者名が書かれています。帰り道は、これを見ながら帰るのですね。建立者名を指定して早く探してくるゲームなどが出来そうです。緩やかなのぼり坂を行けども行けども鳥居が尽きません。朽ち果てたもの、まだ建立ほやほやのもの、大きいもの小さいもの、会社名が入っているもの、個人名のもの、連名のもの、いっぱいあります。途中に小さなお宮があったり、キツネさんの石造を左右に配したミニお宮があったり、人がくぐれる鳥居よりは随分小さい顔の大きさぐらいの鳥居がミニお宮にいくつも立てかけられていたり、鳥居だらけです。やがて石段になり勾配が少し急になります。こうなってきたらゆっくり一歩一歩刻んでいくしかありません。急いでしまうと後で足に来ます。40分ぐらいで中間の四辻まで来ました。ここに来ると視界が開け、京都南部のパノラマビューが広がります。ベンチに腰掛けて休憩です。家内は束ねた髪の中に汗をかいているらしく、髪を解いて風を入れています。
交差点の辻を挟んで1軒売店があり、家内はアイス抹茶、私はみぞれカキ氷を注文し、身体をクールダウンです。売店のお姉さんにさらに上のことを聞くと、頂上まで行ってここに戻ってくるまで1時間ぐらいとのこと。今までと同じぐらい上にあるようです。無理は禁物、下山することにしました。頂上まで上がっても標高200mほどの低い山なのに、歩けば大変です。北に向かう辻には「東福寺・ハイキングコース」と書いてありました。確かJRの1駅目が東福寺だったので、1駅歩くのですね。私達夫婦には、山登りはおろかハイキングコースもきつそうです。
そのまま来た道を下山し稲荷神社本殿まで下りてきました。門前道路のような左右にお土産物屋さんの並ぶ道路をゆっくり帰り、駅まで戻りました。空を見上げると積乱雲の下のように、暗い雲が覆ってきました。雨がポツポツ落ちてきましたが駅についているので心配なしです。リュックの中の傘は使わなくてもよさそうです。3時過ぎに帰路に着きます。電車の中で、「今度HEROって映画観にいかない?きっと面白いよ」と誘うと、「いいよ。何時から?」と結局そのまま地元の映画館に行くことになりました。家内はドラマを何度か見たことがあるようですが、前回映画同様、面白い映画でした。8時にバスで家に戻るというメニュー盛りだくさんの充実した1日でした。

2007/9/3
日曜日は、仕事で大津まで行っていました。柳ヶ崎から引っ越した琵琶湖ホテルの新館での会合でしたが、ここに来るのは3度目ぐらいですが、琵琶湖の眺めがいいです。全日本インカレ個人戦を海陽でやっていますが、多数の大学生が練習をしています。先週の団体戦予選で敗退した学校は既に新チームに生まれ変わって1年後を目指して練習を開始したところなのでしょう。いい風が吹いていました。
昼休みに隣のショッピングセンターを覗いてみました。ビデオレンタルのTSUTAYAが入っていましたが、どうやら本屋さんのようです。何となく入ってみると、正面の話題図書コーナーで「永遠のゼロ」が平積みされていました。ゼロ戦で特攻したお爺さんの事を知りたいと言う母親のために孫が少なくなってしまった戦友を訪ねる物語ですが、昨年軽く話題になりました。「探偵ナイトスクープ」という長寿番組の放送作家の百田さんの著書で、その関係で関西の芸能関係の方が読み、意外に面白かったというクチコミでした。すぐに注文しましたが、出版社がそんなに売れないだろうと思ったのか既に売り切れていました。その増刷版なのでしょうね。いいものを見つけました。衝動買いです。
森見登美彦さんの「新釈走れメロス」を行きの電車で読み終えたので、早速帰りの電車で読み出しました。まだ最初の2割も読んでいませんが、この本いいです。まだ最初なので当たり前なのでしょうが、特攻というストイックな面を掘り下げる感じではなく、海軍・陸軍、戦闘航空機の役割、各国航空機性能、飛行兵への流れなど、うまく元飛行兵に語らせています。それに沿って調べた事柄と相まって、当時のことがより深く知ることになりそうです。

2007/8/27
日曜日は、ドラゴンのレースでした。主力メンバーは4人ですが、全員揃うことはまずなく、いつも誰かが欠けて3名のメンバーちょうどだったり、誰かと誰かが欠けて2人で出たり、さらに欠けて自艇はお休みして、よその船の助っ人に入ったりです。でも今回は4名全員揃うとのこと。「ビデオを持って、クルーザーからレース風景でも撮るかなあ」と準備しました。
9時集合で、15分ほど前に着くと既にシブカワさんが来られています。しまったオーナーに遅れてしまった。家を出かける時に、母親がやってきて、「どこどこの定期が今度満期になるけど、その通帳どこだったっけ?お父ちゃんから、みんな郵便局にまとめておく方がいいと言われてたんだけど、どうすればいいかねえ」と。「知らんがな。自分のお金だから自由にしたら」と言ってやりたいが、ここ何年も親父がそういうのもみんなしていて、その親父が亡くなってしまったので、僕らに相談してくれた方がこっちも安心です。家内と隣のお袋の家に行き、通帳を探し残高を確認して、結局僕らが手続きをすることになるのでしょう。まあ母も年齢が年齢なので、一騒動終えて家内と笑いながら「仕方ないね」と家を出ました。そんなわけでオーナーに遅れを取りました。
4人揃ったところで、シブカワさんから、「ヒライさんとこ2人やから助っ人に行くわ。3人で頼むわ」。ということでヘルムスをすることになりました。MAX4m/sまでの気持ちのいいレースができました。でも暑くて500mlのペットボトル3本飲み干し、3人の補給水分の在庫切れで最終レースはリタイヤしました。というのはウソで、また下マーク回航でジェノア展開が出来にくくなり、ウインチが利かなくなったので、それを直すために先に帰りました。
帰りの途中KGが練習をしており、新レスキューを見に行きました。インフレータブルに乗っていたコウノ監督が近づいてきて、関西学生個人戦の成績を聞きました。新レスキューはフライデッキがあり、ポールを何本も立てられ、レースの本部船として十分な機能を持っています。スターンにはアウトサイドにデッキが出ており、これが結構使えそうな感じです。上架桟橋に戻り、メインを下ろそうとしましたが、また下りません。コツがあるのでしょうが、よく下りなくなります。リラウンドして再び挑戦したが下りないので、そのまま桟橋につけることにしました。オオノさんが来ておられ、下ろすコツを教えてもらい下ろしました。オオノさんは氷を入れたクーラーボックスを持っておられ、「冷たいのどう?生き返るよ」とペットボトルをご馳走になりました。なんというスペシャルな心遣い・・・。
ウインチを直して・・・と言ってもトヨゾウさんが直すのを見ていただけですが・・・解散です。先輩方は、シャワーを浴びてウェットバーで他艇クルーの方と一服して帰宅するのでしょうが、車でCDデッキをつけるために車屋さんに向かいました。帰宅後は、昔のビデオのデジタル化です。子供達が小さな時から撮り貯めたビデオをDVDにダビングしています。赤ちゃんの時のVHSは、相当痛んでいて、いずれ見ることができなくなるのは必定です。やっとこ保育園時代のミニVHSまで進みましたが、撮った本数が多いので中々はかどりません。でもこの過程で、再び小さな子供達の映像を見ることができ、幸せな気持ちになります。
そうそう、朝艤装しているとJ24のアグネスにショウジ君がいました。金曜日から日曜日まで琵琶湖で近畿北陸ブロックの学生団体戦なので、リッツのコーチをしている彼に「こんなとこにいていいの?」と聞くと、昨日まで向こうに行ってたそうです。2日間の成績を聞くと、470の3位を京都産業と京都が争ってるようで、両クラスとも京都は上位4校の全日本枠に入りそうだと状況を教えてもらった。先週の個人選を見た限り行けそうだなと思っていましたが、やっとこ両クラス全日本行き切符を得られそうです。コーチの次男君も金曜日から3日間琵琶湖に詰めているので、喜んでいるだろう。ショウジ君は次男君と同学年で琵琶湖ジュニアでOPに乗っていた気のいいヤツです。清風高校ヨット部では一緒になりました。大学生になり琵琶湖でまた覇を競い合いました。先週琵琶湖の学生個人選手権に行ったとき、次男と2人でジュリーをしていました。新米ジュリー2人でボートに、楽しそうにやってました。こういう関係はいいですね。これからもずっと仲良くやって欲しいです


2007/8/20
先週は、結構盛りだくさんな週でした。
先週の日曜日に京都保津峡ハイキングに、家族みんなでワイワイやった後、火曜日に幼稚園同級生の女の子からメールが入りました。この幼稚園はちょっと変わった教育方針を持つ私立で、当時幼稚園に通う子も半数ぐらいだったのに、3年保育でした。独立心を養うためだと思うのですが、4才の子が電車とバスを乗り継いで1人で幼稚園に通いました。幼稚園初日は親と幼稚園まで来て、次の日は幼稚園の門まで、その次はバス停までという風に、段々と1人で来る練習をして、1ヵ月後には家から1人で出かけなければなりません。「僕、えらいねえ」と周りの大人から言われた記憶があります。今では、即駅員さんに止められて家に電話を掛けられるのでしょうね。まあ、友達と道草して親に捜索願を出されたこともあり、遅くまで駅で遊んでいる僕らを駅員さんが駅長室に軟禁し、連絡を受けた親が血相を変えてやってきたこともありました。「心配してたのよ」なんて言われても、「ちゃんと時間表を見て、まだ帰りの電車があるのを把握してたし、大体まだ日が暮れる頃の時間帯じゃない」と何故怒られているのかわからなかったこともありました。そういう修羅場を潜り抜けてきた仲間なので、何故かずっと親も子も仲がいいです。「お宅のお子さん、もう帰ってきた?」なんて親同士はしょっちゅうやってたように思います。ある時は、いつものバス停から駅と反対の方に乗って行ったら何処に行くのだろうと探検することになりました。私はそのツアーには参加しませんでしたが、後日それが集団迷子になり幼稚園の先生から注意されました。先生もそんな間違いをするはずがないと思っていたのかもしれませんが、僕ら同学年の園児は、「何でばれたんかなあ」ぐらいにしか思いませんでした。誰かが親に大冒険をしゃべったんでしょう。
そんなけったいな関係の同級生からなので「また同窓会しようよ」ぐらいの連絡だと思ってメールを開きました。すると内容はもっと大変なもので、その子のお母さんが亡くなったというものでした。すぐ連絡を取ると、その日がお通夜との事。すぐにみんなにメール連絡し、葬儀会場に連絡を取って、供花や供養盛り籠などの手配をしました。お通夜に駆けつけると、女姉妹のために実質喪主の彼女が涙涙の姿で、お父さんをサポートして弔問の方々に挨拶をしていました。「昭和37年・・幼稚園卒園生一同」という私が手配した供花が棺の横の飾られ、ご一家の幼稚園に対する思いが伝わってきました。

同時にこの日は、父の初盆の日で、朝お寺さんが帰られた後、すぐに家内は実家の初盆に向かいました。仕事に出ようとすると、次男君から「香典袋、どこにあるか知らない?」「何処かなあ?お母さんだったらわかると思うけど」と探しながら、「どうしたん?」「高校の同級生が亡くなった」。彼の通った中高は6年間同じ担任先生で、ほぼ同じ級友でした。6年間同じクラスだった子が亡くなるとは・・・まだ23才なのに・・・。

お悔やみの話題が連続でしたが、非常にハッピーなこともありました。
次男の大学ヨット部を手伝っているのですが、彼の1学年上のキャプテン君が結婚するので、式に出席してくれますか?という連絡でした。お相手は、同級生のヨット部マネージャーさんです。昨日の日曜日にクラブに行って仕入れたネタでは、クラブを引退し、恒例の卒業記念誌の製作や卒業生が卒業生の資金で企画運営する追い出しコンパ後のドンちゃん騒ぎの企てをしている間に急接近したとのこと。全然知りませんでした。「もう人生の墓場結婚にスタート切ったのか、線香の1本でも手向けに行ったるわ」とともに、「既にきれいにタックを決め第1マークをおなかの中にこさえているとのこと、人生のストラテジーに迷いはないねえ」なんて返事をしときました。すると「第2上マークぐらい行きたいところです」と返ってきました。
美人の奥さんと、自分をオープンにみんなと笑顔で接する彼は、とてもいい家庭を築くでしょう。彼がキャプテンをしていた時、自分のわからないとを体面を気にせず素直に訊く姿が、クラブ員みんなを楽にさせ、まとまりを作っているなあと思いました。社会に出てプロジェクトリーダーなどをしていくようになった時、きっと周りのいろんな知恵を引き出しいい結果を出していくだろうと想像できました。家族楽しく人生を歩んで欲しいものです。

そして昨日の日曜日は、近畿北陸学生個人選手権に行ってきました。朝京都で湖西線に乗り換えると、「おはようございます」とマネージャーのミサトさんがやってきます。おお、朝からなんというラッキー。並んで席に座り短いウフフな時間を過ごさせてもらいました。西大津駅の改札を出るとそこには、更にきれいどころにマネージャーさんがいるではありませんか。こんなお出迎えを受けていいのでしょうか?艇庫に向かって歩く道中がえらく短かったように感じたのはやっぱりアレやコレやが原因でしょう。
艇庫にはフジワラコーチも来られており、みんなでレスキューのつながれているハーバーに急ぎます。さて出艇というところで、APが揚がったというレース本部に詰めている1回生からの連絡が入ります。ここから11時過ぎまで長い長い陸上待機の時間が始まりました。まだ海上に出ていなかったのでクーラーの利いたハーバーフロントロビーで休憩です。5人も女子マネージャーが揃っているので賑やかなことです。
APが降り出艇です。最終4時までで、この日4レース、土曜日3レースの合計7レースできました。冷たい麦茶を入れたクーラーを持ち込み、フィニッシュした艇がやってきます。マネさんから麦茶を受け取り、フジワラさんからアドバイスをもらいます。毎年段々いい感じになってきます。レースでの結果は、選手の順位しか出ませんが、その中身はいろんな物が含まれていると思います。コーチの技術指導、監督の選手が活動しやすい環境、艇庫を含めた生活環境、いろんな要素があると思いますが、第一は現役学生のモチベーションのような気がします。
レースというものは厳しいものです。どれだけ練習しても、結果が出ない時はあります。なんかでがっかりしている時もあります。でもどんな時でも、次のレースに向かっていかなければなりません。厳しい練習をしながらも、陸上でおいしい食事が待っていたり、楽しいことがあると気持ちがリフレッシュされるものです。そういう積み重ねが4年間のクラブ生活を全うする元になり、いいレース結果にもつながるように思います。
レースをフィニッシュしたらコーチボートに来るように何度もいい、出来るだけマネージャーさんの参加を促してきました。クルーとスキッパー2人だけでレースに臨むわけですが、今のレースでよかったことを誰かに言いたいし、聞いて欲しい。外から見たコーチや私から、何か次のレースに繋がるヒントが得られれば。炎天下精一杯能力を使った肉体に1杯の冷たい麦茶と、女子マネージャーさんからの拍手、「おめでとう」「次もがんばってね」の言葉、それと何より女の子の笑顔・・・多分男子選手にとってこれ以上の発奮材料はこの世の中に存在しないでしょう。レースに出場していない下級生やマネさんも出来るだけライブでレースに参加するため、出来るだけレース艇を追っかけて動き回ります。レース中の選手を出来るだけ近くライブで見て、「がんばれ〜」って思うことがきっと選手に届くでしょうし、泣き笑いをクラブみんな一緒に出来るだけ同じレベルで体験できます。そういうのを大学生のこの時期持てるのは素晴らしいことです。生涯忘れないでしょうし、家族を持ってもそう子供に接し、周りを明るくする大人になれるような気がします。

いい感じで最終レースを迎えました。最後のレースまでずっと三井寺の風でしたが、レース途中で北風に変わりました。その辺は風向の変化が多い琵琶湖のご愛嬌ですが、ことはそう簡単には済みませんでした。琵琶湖の北西の山で雷が鳴り出しました。きれいに稲光が見えます。「あれがこっちに流れてくるとやばいなあ。最悪、全員をコクピットに入れて、落雷しても身体を守らなくちゃな」と考えていました。
最終艇がフィニッシュするのを待って、レース海面から離脱して、京都・滋賀医・金沢・富山が着艇する浜の沖を目指します。雷の動きをチェックしながら、次々着艇するレース艇を見届けます。「さあ帰ろうか」とみんなに声を掛けハーバーに向かいます。雷雲は琵琶湖を渡って北東の方に動きましたが、風がどんどん強くなってきます。白波が湖面全体に広がり、ラビットさんが一面を覆っています。
ハーバーバースに先に向かった滋賀医のボートと間隔をとります。こんな風と波の中、難なくバースに入っていきました。続いてうちのボートです。普通でも結構難しいので、風に流されないように微速、最後は人力が無難、ダメだったら無理せず反対側の桟橋に一時係留を決め、バースに向かいました。「う〜ん、中々うまくバースの左右ポールの間にバウを突っ込むことが出来ました。人力でロープを引っ張って桟橋にバウ接岸がいいのですが、強風で人力もままなりません。ちょっとスクリューを回し前進を2度ほどしてうまくいきました。
ところが左横では、滋賀医のレスキューが更に右横のバースとの間のロープを切って横を向いています。その状態でスクリューを回したので鉄柱ポールにスクリューが触れたようで大きな音です。「スクリュー回すな〜、人力でいこう、ロープ引っ張れ〜」。前にいるのは女の子1人なので引っ張れません。持っているのがやっとこです。うちの船から桟橋に渡ってロープを向こうに渡して桟橋に引っ張ります。突然の大風にみんな大変です。沖を見ると、同志社と京都産業のレース艇が数艇ひっくり返っています。横にレスキューがついているので大丈夫でしょう。ひっくり返ったままエリまで流されている艇もいます。

最後のミーティングの最中に470のキャプテン艇が全日本学生個人戦への出場権利を得たのが伝わってきました。めでたしめでたしです。「今日はご苦労さん。ボートスピードもあって、例年の上位校と真っ向戦えるよ。また今日マネさんがたくさん応援に海上に出ていて嬉しかった。総合力の勝負だから、レギュラーやそうでない、選手やマネージャーそんなの関係なく、みんなの総合の力が来週の団体戦の結果に出るから、十分睡眠を取って、体調整えて、勝負に行こう」と激励して艇庫を後にしました。
次男君に車で駅まで送ってもらい電車に乗ってお終いな日なのでしょうが、もう一つ面白いことがありました。電車に乗り込み何気なく座ったベンチシートで隣の話が耳に入ってきました。「くそう、練習でいい感じだったから3艇とも全日本に行けると思ってたのになあ〜。うち3艇とリッツ1・京産1で最後の一艇に何処が来るかという感じに思ってたのになあ。リッツの他の2艇があんなに走るなんて。京都が入って来るか〜」「各校1艇はしっかり走って来るね〜」。むむ、ヨット関係者?と横を見ると、原子力注意のようなあのマークがついたバックを床に置いて、きちんとネクタイ着用のD社選手のようです。それに答えている声を聞いて、「ありゃ?ユウジ?」と肩越しに見ると、やっぱりそうでした。なんかこうなっちゃうと、「お〜ユージ」なんて言えなくなってしまって、そのまま黙っていました。ほんとは、最後のサバイバルな場面で船とかマテリアルとか痛まなかったか訊いてみたかったけど、まあ仕方ないです。お互いフェアプレーで勝負しようね。

2007/8/15
映画「夕凪の町、桜の国」を観ました。原爆の日と終戦の日がある8月は、お盆という古くからの風習もあって、先祖やルーツ、先人の事を思う時期でもあります。
まだ夏は始まったばかりですが、この夏最も心に残ったのは映画「夕凪の町、桜の国」になりそうです。広島で暮らす5人家族をピカッが襲いました。父親と瓦礫の中で息絶え、妹は必死で両親を探す姉の背中に背負われたまま、「お姉ちゃん、長く生きて」という言葉を最後に亡くなりました。
やっと出会えた母と姉は、その時のやけどがいつまでも消えません。一番年下だった弟は関東の親戚の家に疎開していて助かりました。母と姉は全てを失い、河川敷に不法占拠したバラックに住み始めますが、生活が苦しく弟を迎えることができません。彼は親戚の養子になり姓に変えます。そして13年経って高校生になり、やっと広島に向かいます。彼は姉が病に臥したために広島に向かいましたが、そこで姉が後遺症で亡くなってしまいます。
その時弟は「何で広島にピカッが落ちたんやろ」と姉に言い、姉は「ピカッは落ちたんやなくて、落とされたんよ」と答えます。さらに「落とした人は、やったあまたもう一人・・・と思うんやろか」と続けます。
弟は、残された母を思い、広島の大学を受験することに決め、母と一緒に住み始めます。やがて大学を卒業し働き始めた彼は、ずっと母の仕事を手伝ってくれていた少女を、家に引き取ろうとします。彼女の両親もピカッで亡くなり、その後この場所で一緒に住んでいた兄が嫁を娶り家族が増えたことで、居場所がなくなっていました。狭い家がさらに狭くなるが、当然賛成すると思っていた母が反対します。その理由が「あの子もピカッを浴びた子や。家族で唯一無傷なお前に・・・とてもいい子やけど賛成できへん」
数年後、弟は東京に転勤になることになりました。母と共に、この少女を妻として連れて行くことにしました。幸せな家庭は、やがて主人公の姉と弟の2人の子供を授かります。でも主人公が小学生の時、母は黒い血を吐いて亡くなります。さらに主人公のおばあちゃんも亡くなります。
失意のうちに、父と姉弟は他市に引っ越します。そして父が定年を迎えますが、それから父の様子が何か変です。ボケてしまったのかもしれません。ある日、フラッと出て行く父を姉がつけます。電車に乗るところで、お金を持っていない彼女は尾行を諦めようとしますが、偶然通りかかった失意の町で同級生だった子に出会い、2人でつけることになりました。
たどり着いたのは父のルーツ広島。亡くなった父の姉の50回忌でした。先祖の眠るお墓を参り、姉の持っていた写真に写っていた友人を訪ねています。広島が初めてという友人は、平和記念館に行くと携帯電話のメモを置いて別行動します。
そのメモには、さらにもう1枚のメモがありました。主人公の弟が、友人に宛てたメモです。「ご両親に会いました。原爆を浴びた方の子であるあなたに、大事な娘を・・・と言われました。子を思う親の気持ちはよくわかり・・・あなたを諦めます」
父・主人公・弟、そして主人公の友人・・・みんなに素敵な終わり方で映画の幕は閉じられました。物語は、怒りの言葉や表情なく、静かに描かれています。
身体にやけどの跡を残す者が異常に多いのに、そのことは会話に出ない町。運命を受け入れながら、「長く生きて」と言う言葉を残す人。長く生きなきゃと思う人。過酷な運命を背負った人やその子・孫をかわいそうだと思いながら、当事者になってしまうと自分の肉親をその縁から遠ざけようとする人。
原爆から60年も経っているのに、現実のそういう方々がたくさん住んでいます。自分の肉親がそういう方と深く関わったら、私はどういう選択をするだろうか・・・。善悪などでは解決できない深いものがそこにはあります。
映画を観終わって、その題名の素晴らしさに気づかされました。広島湾は、全国有数の風の弱い場所で、微風が予想される来年の北京オリンピックのヨット競技会場チンタオを想定して、オリンピック一時選考がここで行われます。夕凪の町は広島を見事に指しています。そして桜の国は、日本という国そのもの。世界で唯一の被爆国日本に住む者として、深く考えさせられる映画でした。
暗い映画になりがちな題材を見事に現代風に色づけした主演の田中麗奈さんの演技は素晴らしいものでした。この映画は、時系列順に進んでいきません。主人公の物語と、父親の姉をもう一人の主人公にした物語が、リンクしながら時々時系列が飛んで描かれています。こういう手法は、時には観る者が混乱してしまうことがありますが、この佐々部清監督さんは見事に処理しています。年末の賞には、監督・主演・作品でノミネートされそうです。
原作は元々漫画だそうです。それが話題になり、続編が掲載され、その両方を原作にしてこの映画は作られたそうです。原作はその後小説にもなっているようで、早速注文してしまいました。
すばらしい映画でした。

2007/8/13
土曜日は、昨年に続き船から芦屋の花火を見る計画が先輩からありましたが、仕事で参加できませんでした。先輩のお嬢さん方も来られるということだったので二重の残念です。そして日曜日。大勢で京都に行って楽しんできました。
今年は父の初盆です。ずっと誰もいなかった我が家のお墓に初めて父が入り、初めてお盆の時期に我が家のお墓に参ります。日曜日は、母を連れて参り、その後京都にでも行こうかと計画を立てました。義理父さんの新盆でもあるので無理かなあと思いつつ弟に声を掛けると、家族で参加するとの事。うちの次男と東京から帰ってくる長男も参加で、9人という大勢で1日過ごすことになりました。朝一番にお墓参りをして、亀岡・嵐山という計画を練りました。
金曜の夜、会社の友人達と東京を発った長男は、帰省ラッシュ渋滞で土曜の夕方到着しました。そのまま寝たようですが、日曜の朝顔を合わすと、まだ寝足りなそうです。うちの車で私と次男が運転かなあと用意していると、長男が「僕ので行こうか」との申し出。車で帰ってきたのも、初めて全部自力で買った車を家族に見せたいのもあるのだろうと、そうしてもらうことにしました。
母を含め5人で乗り込みます。この車は、オートマチックとマニュアルの両方のトランスミッションがついています。マニュアルにあわせると、ワンアクションでギアが動かせるF1と同じシステムだそうです。最近の車はこうなってるのですね。
定刻の8時にお墓に着くと、さすがにお盆の日曜日、多くの方が見えておられ、ガードマンが数人交通整理をしています。やや遅れて弟家族が到着し、掃除・お供え・お花・線香とご先祖様になってしまった父に一連の挨拶です。弟の子がまだ小さいので何をするにしても笑いがあり、大人だけよりずっといい感じです。
ココから亀岡に向かい、ハイキングと保津川下りの2コースを各自選択し、嵐山で合流してトロッコ列車で亀岡に戻り、そこから帰宅という予定で、トロッコだけ予約で切符を手配しました。数日前、弟は5才のチビさんがいることもあり保津川下り希望を言っていましたが、当日はハイキングを希望するとのこと。トロッコ亀岡駅前駐車場に車を置き、JR馬堀駅まで500m歩きます。そこからJR保津峡駅まで1駅乗ります。JR保津峡駅は、なんと保津川にかかる鉄橋の上に駅があります。両側ともすぐにトンネルになっているので、ココにしか駅が作れなかったのでしょうが、いきなり眼下に川が流れ、風が渡り、夏には最高の駅かもしれません。
どっちに駅の改札があるのかと見ると、西側にあるようです。「降車される方は切符をココに入れてください」と箱が置いてある無人駅を出ると、ここから歩きです。みんなに遅れてビデオをガチャガチャ用意し、まずは眼下の保津川と鉄橋上の駅を収めていると、早速駅前の自動車屋台でカキ氷を買った長男が、それを食べながら追い抜いていきます。すぐに橋を東側に渡ります。舗装された保津川沿いの道を時々通る車に気をつけながら下ると、右手の対岸をトロッコ列車が走っていきます。やがて「あれ何?」って先頭を歩いていた弟のところにみんな止まって見ています。トロッコ保津峡駅のようです。それに向かってつり橋が架かっているので渡ってみることにします。
「ココでハイキング終わり?」と家内。「んなわけないでしょ。まだ15分ぐらいしか歩いていないじゃないかな」「ちょうどいい距離なんだけどなあ」だって。「カキ氷売ってるかなあ」と空になったカキ氷の入っていた容器を持った長男。「売店なんてなさそうだけどなあ」とつり橋に向かって下りて行くと、こちら側のつり橋の根元に売店がありました。早速長男は席に着いています。2杯目のカキ氷のようです。この売店は桟橋に通じる道をまたぐように営業しており、店内を通らないと駅にいけません。家内も腰を下ろし始めました。
何故かバイクまで置かれている桟橋を渡っていると微妙に揺れています。5才の姪は、怖いとお母さんと手を握って渡っています。ちょうど下を保津川下りの船が下っていきます。橋の下には写真屋さんが構えていて、船頭さんの「記念に写真を撮ります。よろしかったら嵐山で買ってください」と、カメラに向かって手を振ったりして場を盛り上げています。駅に上がると、大きな猿がお出迎え、狸の置物もプラットホームに並んでいます。元のつり橋に戻って保津川を眺めていると、さっき亀岡に行ったトロッコ列車がお客さん満載で帰って来ました。ピーという警笛の音と共に駅に入ってきます。駅にいた次男と甥が走って上り下りのプラットホームを結ぶ連絡橋を走って上っていきます。上から写真を撮るようです。長男は、駅横の階段を下りたのか下の河原にいます。「アレッ」義理妹が指差しています。鬼の衣装を着たおじさんがプラットホームから姪に何か声を掛けています。姪は、ちょっと怖そうにしています。すると鬼さんがくるっと回って、鬼のお面から機関車トーマスのお面に早変わりです。
さあて出発です。再び保津川に沿って歩きだします。次々通る船から手が振られます。きっと船頭さんが盛り上げているのでしょう。ちょうどいい水量なのか歩くのより少し速いスピードで下流に向かっています。保津川に清滝川が合流する所にある落合橋のところまで来ました。そのまま峠を越えて嵐山の方に下りていくか、清滝川に沿って清滝まで上るかの分岐です。当然清滝川を選択します。ココからは河原の横に道を歩く感じで、ところどころで水着になった親子が川で遊んでいます。ビデオを映しながらみんなから遅れて歩いていると、我々一行は道端の木陰に敷布をひいて腰掛けようとしています。長男などは既に川に足を漬けています。
次男が背負ってきた荷物からお弁当を出し、ココで昼食です。母親の荷物もあるのでリュックを用意したのは正解でしたが、結局次男がこの重いリュックを背負ってくれました。ありがたいことです。家内も私もはだしで川に入り、もちろん姪・甥も入っています。長男・次男は、年の離れた姪・甥を見守るように一緒に遊びながらバシャバシャやっています。このメンバーでは一番元気で頼りになるのは、長男・次男です。長い列になってみんなで歩く時は要所で歩き、何となくみんなを守っている感じが伝わってきます。
傾斜は急ではありませんが、少しずつゴツゴツした岩の上を歩きやすくしてある程度の道に変わってきて清滝に到着です。車も通る舗装された道ですが、バス停に上がる最後の100mほどが少し急坂でした。平気そうだった母がこの坂で胸に風を入れています。家内が気を利かせて休憩を入れます。母、私と家内・次男だったか長男だったかで、冷たいお茶を補給して生き返ります。「あそこに見えてるのがバス停だと思うけど、あと30mぐらい」と言うと、「じゃあ行こうかねえ」と母が動き出します。バス停に上がると、弟夫婦が次のバスの時刻を言ってくれます。家内とバス停で腰掛けていると、息子2人は横の売店でまたカキ氷です。汗をかいた姪はピンクから青いワンピースに着替えです。JR保津峡駅が11時過ぎで、トロッコ保津峡駅で30分、昼食で1時間程休憩したから、歩いていたのは1時間強というところでした。全工程3kmほどだからこんなもんでしょう。いい感じの距離です。
TVでよく紹介される京都の心霊スポット清滝トンネルがバス停のすぐ目の前です。元単線電車の走っていたトンネルを使っているようで、トンネル手前の信号で上り下りが交代で走行するようです。バスでこのトンネルに入ると、薄暗くバスが通ると左右に壁が迫ってきます。弟家族は以前嵐山からココまで歩いてきて、このトンネル内を歩いて清滝側に抜けたそうです。歩道を隔てる柵もなく、とても危険な感じでした。夜あまり車も通らなくなると、不気味なのは楽に想像できます。ああ、オソロシヤ。
バスで嵐山に出ると、人・人・人です。人のあまりいないところを歩いてきたせいか、今日がお盆の夏休みであるということをココに来て認識させられました。人力車が大流行でたくさん走っています。ここで弟家族とは別行動です。長男もお土産を買いに行くとかで別行動です。豆腐ソフトクリームなるものを食べました。母と家内は抹茶ソフトで、次男は豆腐と抹茶のダブルです。
あっちこっちのお店を覗き、トロッコ嵯峨駅の近所まできました。すると弟家族が豆腐屋さんで何か食べています。豆腐・フラッペ・・・。一旦合流し、家内と私は先に駅に向かいます。駅は蒸気機関車の博物館のようになっていて、外にも屋内にもSLが並んでいます。SLの横で休憩していると、みんなが少しずつ集まってきてトロッコ列車を待ちます。
1時間に1本のトロッコ列車の改札が始まりました。プラットホームで待っているとトロッコが入ってきました。1〜4号車までは屋根があり窓も閉まりますが、5号車だけは屋根だけしかなく窓の部分はフルオープンです。予約は1号車だったのでそっちに乗りましたが、屋根の下から肩ぐらいまでの窓は全開で支柱も細いので、フルオープンとあまり変わらない感じでした。止まっている時は暑いかなあと思いましたが、走り出すと風が吹きぬけ、案外夏の乗り物かもしれません。元々JR山陰線だったこの線路は、技術の向上とスピードアップニーズにより、トンネルを通る現山陰線に役目を譲り、観光列車としてJR子会社が運営しているようです。JRを退職された方なのか、駅員さんとかがちょっとレトロな制服に明治の方のひげを蓄え、いい感じです。
通路に大きなポラロイドカメラを持った女性がいるなあと思っていると、電車が走り出すとすぐに「ご乗車ありがとうございます。ご乗車記念にお写真を撮らせてください。出来上がりをご確認いただき、よろしければご購入お願いします」と、各座席を回りグループを1ショット撮って行きます。左右の景色と家族の姿をビデオに撮りながら、亀岡に向かいます。何か、親父の墓参りから母を中心にした子・孫の楽しい思い出になりました。ここで弟家族とはお別れです。
亀岡からの帰り、家に近づいて起きた母が、「こんな風に孫に運転してもらって、どこかに行けるなんてありがたいねえ」と言ってました。子供達が小さな頃家内が、「この子に運転してもらって助手席に乗るのが夢」とか言ってたのが、既に実現されています。最後みんなで夕食を太鼓亭で食べました。来月長男がアメリカ現地法人との会合に出張で、英語で30分ほど話さないといけないそうです。そんな話をしていると母が、「仕事で海外に行けるなんていいねえ」と共に、次男に「就職は今年決まるのかなあ」と言っています。「また忘れちゃったな」とみんな思いながら、次男が初めて報告するように「もう決まったよ」と説明しています。長男も微笑みながら聞いています。年齢と共に忘れっぽくなるのも、動きが遅くなるのも仕方ないことです。こういう心使いが出来る子供に育ってくれて幸せです。家内が言葉で注意するのではなく、子供達が何も出来ない時から、彼らにそういう風に接してきたから自然に身についたような気がします。ありがたいことです。

2007/8/6
日曜日は、久しぶりに海に出たくて、淡路島翼港クルージングを企画しました。しかし皆さん忙しく、メンバーが集まりません。淡路島は諦め、知り合いに連絡を取りました。ちょうど数日前、池での子供ヨット教室に双子の子供を通わせたいと話をもらったお母さんにも連絡しました。
その後高校ヨット部の友人から参加できない旨の連絡が入り・・・家内にお客さんのお母さんと子供さんと一緒に船に乗ることになったので、ついて来てくれないかと頼みました。でも眼科の予約をしているようで無理でした。「行って来たらいいじゃない、何、気にしているの?」。・・・あの、お子さんがいるとはいえ、お若いお母さんと一緒というのは気を使うんですけど・・・かなり美人だし・・・。
風が上がってきたら出艇・帰着が大変になるなあと考えながら、日曜日の朝家を出発しました。とその時、自宅の家内から「お父さ〜ん、電話」という大きな声。車をバックさせて自宅前に停めて受話器を取ります。「キンノです。お〜い待ってるぞ〜」。なんと淡路島への出発時間に合わせて船に来られていたそうです。「ゲストさんと今から行くところです。待っててください」と伝え、店に急ぎます。ちょうどお母さんと2人のお子さんが来たところで、早速出発です。淡路島クルージング計画のその後をメンバーさんみんなに連絡すべきでした。
浜は朝から4m/sほどのいい風が入っています。食料を買い、関空方角に向かい適当にUターンする予定でしたが、1時間少しアビームで進んだところで、片方の子供さんがぐずつき始めました。船に酔ったのかもしれません。まだ4才なので本当のところはよくわかりません。持参した酔い止めを飲ませ、北港ヨットハーバーに上がることにしました。
「おじちゃん」と言ってチビさんが手をつないでくれます。そういえば、子供が小さな時は「手、手」と歩くことがあると、手をつなぐことを強要されました。懐かしい小さな子供の手の感触です。お買い物に来てくれると、いつも遊んでくれる子達なので慣れていますが、小さな子は素直でわかりやすくいいです。キンノさんとも手をつないでいて、同じような感じを受けたのでしょうか?
ハーバー事務所棟に入ると冷房が少し効いておりホッとします。数人の子供がおり、カニ・ヒトデ・うなぎと、いろんな魚を水槽に手づかみで入れています。小さなエイまでおり、触らせてもらいました。ゲストの子供達も喜んでいます。再び再会されたコーヒーショップの方に回るとニシオさんがいました。いらなくなったシカーラをもらいに来たそうです。伊丹の池の船が増えそうです。ほんとにヨットの世界は狭いです。こんなとこで会うなんて。
帰りは、夏の午後の定番南西6m/sの風の中、のぼりなのでジブのみであまりヒールさせないようにして浜に戻りました。この日は、キンノさんがおられて助かりました。ゲストさんのお母さんも、ヨットに乗った経験があり、他競技ですが元国体選手でもあるので、手伝いをしてもらえますが、やはり全然違います。ラッキーでした。

2007/7/30
日曜日は、参議院議員選挙でした。11時には義理母の納骨なので、9時に家内と一緒に投票所に向かいます。公園内の集会所がいつもの投票所です。投票を済ませた方とすれ違いますが、ご夫婦で投票に行かれた方が多いようです。そういえば我が家も、家内の店に夜用事があるときに、ボディーガードとして私がついていくのと選挙ぐらいしか、近所を夫婦で歩くことはないかもしれません。次男君も一緒に行く予定でしたが、彼は法事後現地から直接東京に行くようで、大きなトランクを出してきてゴソゴソしています。彼はそれが済んでから行くようです。それを待っても良かったのですが、女性は身だしなみに時間がかかるので、先に行くことにしました。10時の自宅出発時間が迫っても、金曜の夜帰ってきた長男が起きてきません。ぎりぎりになって慌てて起きてきて、風呂に入って・・・と言うことで、久しぶりに家族4人で車に乗り家内の実家のお墓を目指します。
義理母は、去年のクリスマスに亡くなったので、本当はもっと前に納骨予定でしたが、姉夫婦が自分達の墓を建ててその隣に家内実家のお墓を移動することになったので、7月までずれ込んでしまいました。前の墓地と同じ市内ですが、南の市街地から行ったことはあっても、うちの家から高速を通って北から行った事がありません。家内は、元住んでいた町なのに地図関係は苦手なので当てになりません。
高速は渋滞箇所もありましたが、道に迷うこともなく墓地に着きました。新しく分譲されている墓地なのでお墓の建っていない聖地もたくさんあります。法事の1時間前、集合時間の30分前に着いたので、家内らの車でクーラー組を置いて、お墓の場所を探しにうろうろしていると、開眼前の墓石には白い布が巻いてありすぐに見つかりました。お世話してくださる業者さんが、大きなビーチパラソルで影を作り、祭壇などを飾りつけてくれています。駐車場に戻ると、姪達の家族が車でやってきました。甥とお兄さん夫婦が満載の荷物と共にやってきて、お寺さんも来られました。この間うち同様、お墓の開眼供養をしている家族や、納骨をしている家族がいます。その他、天気がいいのでお墓の掃除に来られている家族もいます。結構人が来られています。
法要が始まりました。墓標に巻いてあるサラシをみんなで巻き取り、義理母の写真を正面に、野菜・お酒・果物・・・を祭壇に並べて、続いて義理父母、その両親のお骨を入れます。法事が終わり、みんなで市内の料理屋さんに出向き食事です。姪の子達3人が、泣いたり走ったりで楽しいひと時です。保育園に通っている上の姪の長女が、今度国立の付属幼稚園を受験するそうです。幼稚園の受験なんてどんな受験になるのかわかりませんが、付属小学校から中学に上がり、より良い教育を求めて国の最先端の教育を受け、いい結果を公教育にフィードバックしていくのでしょうね。
次男はそのまま東京に向かい、長男と私達夫婦は家内の実家に向かいました。姉夫婦は市内の別の家で暮らしているので、現在無人です。取り壊すつもりでしたが、衣装道楽だった義理母の持ち物があまりに多く、その置き場がないのでそのままになっています。姉の息子が結婚して地元にでも住むことになれば住めばいいのですが、果たしてどうなることやらです。姉は「何でも持っていってよ」と言うが、うちのキャパシティでは無理なので、先日家内が来て分けていた分だけ車に積みました。
着物好きな家内のこと、着物の箱を何段も重ねて車に積み込みました。コレだけで買ったときは数百万なんだろうなあ。ハンガーにかかった洋服をその上に積み、洋服屋さんの車のようになりました。
長男は、無駄に広い部屋を次々回っているようで、何処にいるかわかりません。結局1人で車まで何往復もすることになりました。積み終えてから戻ってきた長男は、「プレミアムがついてそうなものをたくさん見つけた」と言いながら、これも古そうなうちわを1つ持っていました。最後に家内の中学の時の写真を乗せます。横にいた姉さんが「これ私が撮ったのよ」って。まだ家内と結婚する前から壁に飾ってあった大きなパネルになった写真です。「母さんが子供の作品などを飾るのが好きでね」と姉さん。写真が元大学写真部の姉さんの作品とは、今初めて知りました。中学校の案内の表紙にあるような、斜め下からのアングルから撮った笑顔の写真で、明日を見つめて、明日に向かって、という感じでとても好きでした。「鼻の穴が見えてる〜」なんて家内は言いながらも、きっちり自分で家に持って帰る方に仕分けしてるからお気に入りなんでしょう。それにしても全然色あせていません。さすが元写真部の作品です。姉さん夫婦の出会いもこのクラブで、兄さんが姉さんの下宿に食事を食べに来ていたというか、半分転がり込んできてたみたいです。
長男を駅まで送り、先ほどのうちわを扇ぎながら改札に向かっていきました。その後浜に行き、ドラゴンの整備に購入したスペーサーを取り付けに行きましたが、既にそこは整備されていました。まあ、次どこかに使うでしょう。ちょうど小雨が降っていたのでマーメイド号のあるメインロビーで待つ家内を拾い、家路に着きました。充実した1日でした。
月曜日からは、OPワールドの後半戦が始まります。兵庫ジュニアワールド参戦過去最高成績を残せるかもしれません。がんばれコウキ!

2007/7/23
日曜日は、大文字登山をしてきました。前々から登ってみたかった京都東山銀閣寺の裏山の大文字山と、見たかった南禅寺の琵琶湖疏水を目指しました。
練った計画は、JR京都駅から京阪電車に乗り換えて出町柳駅まで行く。白川通りを徒歩で東に、百万遍交差点を越え、南側の京大を見ながら北側にある知恩寺を参拝。続いて東進を続け、銀閣寺参拝。更に裏山の大文字に登り、下山後、哲学の道を一路南を目指して歩き、法然院・永観堂を参拝して最後に南禅寺に至る。南禅寺では琵琶湖疏水のアーチ橋を写真に収め、市バスでJR京都駅に戻る。
というものです。しめて3〜4時間かなあと思い、家内に持ちかけると、「そんなに歩けない」と一瞬にしてダメだしされました。そこで、出町柳でレンタル自転車を借りる案とか・・・いろいろ修正した結果、京都駅から銀閣寺まで市バスで行き、その後は変更なしということに決定しました。
さて、日曜日の夜明けです。こういう時は得てして早く目覚めるものですが、何やら雨音が聞こえます。「うっそ〜、天気予報さんの裏切りです。1日中曇りって言ってはったやないの」。しかし再び目覚めた6時には雨は収まっていました。これで7月の山登りには最悪の晴れというお天気がなくなり、ラッキーかもしれません。
予定通り7時に家を出発です。8時半に京都駅着、京都市バスの100系統に乗り一路銀閣寺を目指します。女坂を横目に通り、知恩院を過ぎ、平安神宮から動物園前を通ります。「このバス停が南禅寺の最寄なのね。覚えとこ」。この路線は、東山の名所を縫って走っているようです。南禅寺の最寄バス停を過ぎると次のバス停の案内が銀閣寺でした。「何だ、バス停1駅分しか歩かなくていいのか」と拍子抜けしましたが、このバスは急行だったので、3つぐらいバス停を止まらず進んで銀閣寺です。
銀閣寺の門前みやげ物屋さんは、まだ開店したところです。半分ぐらいのお店はまだ閉まっています。銀閣寺の参拝時間は始まっていました。それにしても朝早くから外人さんが多いです。京都は毎年数回来ていますが観光地に行くのは久しぶりで、こんなに外人さんが多い街だったかと驚きます。まあ7月入ったという季節柄もあるでしょうね。
庭園に入るとこじんまりした池を前にいきなり銀閣寺が目に入ってきます。参拝コースをのんびり歩きながら、ちょっと感じていた疑問を家内にぶつけてみます。「あれが銀閣寺って知ってた?」「え、あれ?銀色してないよ。金閣寺は金色してるじゃない」。やっぱり・・・目がそれをスルーしてたので、気づいていないのではないかと思いましたが。「金閣寺は金色してるけど、銀閣寺は銀色じゃなくて風景に溶け込む日本人の粋の世界だから派手じゃないの」。「銀閣寺って3代将軍義満が作ったんだっけ?」「3代将軍は家光だよ」「それは徳川でしょ。こっちは室町だから義満だよ」なんて会話をしながら、拝観料を払った時もらったパンフレットを読んでみます。「ナハ、私の言ってることも大間違いです」。足利3代将軍義満は金閣寺を作り、5台将軍義政が銀閣寺を作ったそうです。古の昔、きっちり習いきっちり覚えたのに大分忘れています。でも家内の徳川家光よりは数段マシだなと納得。家内はとても賢いのに、何処か1本抜けているところがあり、これがまたいいところで嬉しくなってしまいます。
銀閣寺を出て次は大文字山登山です。大文字山というのは正式名かどうかわかりませんが、京都のお盆の風物詩五山の送り火で”大”の字が夜空を焦がす山です。京都の何処からも見えるので、当然大文字山からの眺めは絶景です。それを見たい見たいとずっと思っていました。ついに実現です。銀閣寺山門前を山門に向かって左に進むと道なりに大文字登山道になります。登山と言っても頂上でも460mほどしかなく、大文字の送り火の松明を点火するところはもっと下なので、運動靴さえあれば誰でも登れます。木々が日差しをさえぎる清流に沿う道を登っていきます。慌てて息を弾ませては最後が辛くなりそうなので、ゆっくりゆっくりマイペースで登ります。最後に150段ぐらいの階段があり、それを抜けると眼下に京都の町が一気に広がります。
中年登山グループのおじさんやおばさんが10人ほどと、自衛隊員のような服装の地元消防団の方が6〜7名、さらに単独や数人のグループが2〜3いました。”大”の字を作り出す点火台が、足のすぐ下の斜面に横に走っています。上の斜面にも、斜め右・斜め左の斜面にも等間隔で続いています。ここに松明を置いて点火すると”大”の字になるようです。消防団の方が、登山グループさんに説明をしています。「風にあおられ草に燃え移るのを消火しながらの作業なので汗だくですよ。麓で見ているほど楽なものではありませんわ。1人20kgの荷物を担ぎ上げるのも大変です」。登山道の上をケーブルが架かっていましたが、その時の資材を運び上げたり下ろすのに使うのかもしれません。
一時すると登山グループは、山頂目指してさらに登って行きました。消防団の方たちは下って行きます。五山の送り火も、このような地元の人たちの努力によって続いているのですね。それともう一つ。登山道にはゴミが全く落ちていませんでした。これも消防団や地元の方達の日頃のコツコツですね。頭が下がります。
家内は目的地に着くとすぐに腰を下ろし、流れる顔の汗をぬぐっていました。髪の毛からもしずくが落ち、笑ってしまいそうでした。一番手前の森が吉田山、その北側を東西に白川通りが走っています。その向こうの大きな森が京都御所。その手前を南北に走る緑が加茂川ですね。京都地図を見るようにはっきりわかります。生憎の曇り空なので西山の方はよく見えません。
下りは30分弱でしたが、上りは40〜50分かかっていたと思います。たかが400m弱の山ですが、かなりのものです。私は少し平坦なところがあるとペースを上げたりしてムラがあり、家内が上がってくるまで水分補給して足を止めましたが、家内はずっと同じペースで登ってきます。そして全然止まらない。何かすごいです。

銀閣寺まで下り、今度は哲学の道を南に進みます。哲学の道は、琵琶湖疏水沿いの道ですが、最初にこの川の流れを見たとき、変な感じを受けました。京都の中心を流れる加茂川は北の鞍馬の方から南に向かって流れています。これは納得できるのですが、哲学の道に沿う川は反対に流れています。つまり南から北に向かって流れています。何か変じゃないですか?
その謎を解くために調べてわかったのが、これは琵琶湖から水を引いた琵琶湖疏水という人工河川だということです。琵琶湖大津から東山をくりぬいて水を引き込むスケールの大きさに驚きます。京都の水道需要をまかなう他に日本発の水力発電も始まり、京都市電はこの電力によって走ったそうです。さらに琵琶湖からその疎水に乗って船も来れるんです。途中標高を上がるところもあるのですが、船を電車のように鉄路に乗せて運び上げるという芸当もやってのけています。いつか琵琶湖疏水を大津取水口から蹴上・南禅寺・哲学の道・浄水場・下鴨堀川と走破してみたいと思っています。琵琶湖疏水は、明治維新で東京に都が移り、人口減少で京都が地盤沈下していく中、京都を上げての起死回生の大計画だったそうです。男のロマンが漂います。

さて銀閣寺から哲学の道を南禅寺方向に歩き始めた私は、男のロマンなど頭に浮かばず、タダひたすら「まだかなあ〜。靴の選択を間違えた。大文字登山を甘く見ていた。足の裏が痛いよう。これは靴底が固いからかも?」なんて泣き言を胸に歩いていました。そう言えば、次男の下宿選びに哲学の道を渡ったすぐのところを見に来たことがありました。
「西田幾多郎さんのように、毎日通るこの道で何を考え想像するのだろう」なんて、このシチュエーションはいいねと思っていたが、次男から「駅から遠い」と超現実的なダメ出しが出て、次男が哲学者になる夢はあっさり消えてなくなったのは数年前のことです。疎水沿いに次々現れる喫茶店やみやげ物屋さんを見ながら、絵を描きながらついでに売ってるお嬢さんを見ながら、この疎水の水深には不釣合いなほど大きく成長した鯉を写真に収め、ウダウダ家内と話しながら歩きます。途中の法然院はパスです。
慣れてきて単調になってしまった哲学の道の終わりが来ました。行く手を永観堂が妨げ、その敷地内に消えていきます。一般住宅地をぐるっと回って永観堂正面から参拝することにします。1人600円也、銀閣寺より100円高いです。枯山水に伽藍、背後の東山の少し高いところに三重の搭かな?多塔伽藍が絵になります。今日は大分写真を撮りました。家内は椅子を見つけ、「休憩してるから回ってきて」と、再び日焼け防止のために着ている黒の長手袋、黒の中袖上着を脱いで汗対策をしてはります。お肌命の家内は、7月なのに顔しか外に出ていません。白の帽子を除いて、全身黒です。UV効果は黒の方が高いのかもしれませんが、薄手の素材とはいえ、いかにも暑そうです。
続いて、隣の南禅寺に入りますが、あまりに大きくて、琵琶湖疏水のアーチ橋を探しに行く気力が失せてしまい、ここでリタイヤです。9月には去年亡くなった家内の母親の分骨をしに来る事になっているので、次回に楽しみは残しておくことにしました。再び住宅地を歩いて大通りに出てバス停を探します。家内がバス停を前方に発見したと同時に「あ、バス来た」と家内が叫びます。ブ〜ンって横を抜いていくバス。「あかん」走っていく気力がありません。「10分待てば次のが来るから」。もっと向こうには、タクシーやバスが停まっています。動物園のあるところのようです。「やっぱり南禅寺前からタクシーにした方が良かったかなあ」と後悔しながらバスを待ちます。
何気なく動物園の方を見ていると、向こうからお客さんを乗せた人力車がやってきます。銀閣寺や哲学の道でも人力車を見ました。哲学の道に「舞妓さんになれます」という立て看板のあるお店があり、家内に「舞妓さんになってみたら。似合うよ」と半分本気で、半分おだててみましたが、その時もその店先に空車の人力車がいました。南禅寺から住宅地に入ったところで、女性の引き手の人力車にも出会いました。「人力車って走るんじゃなくて歩くんだね」とその様子を見ながら家内と話しました。
動物園の方から走ってくる人力車をカメラに収めようとカメラをいじくっていると家内が、「上に乗ってる人舞妓さんだ」って。舞妓さんともう一人の方は明治の男性の服装です。観光記念に扮装し乗ってるんですね。哲学の道で見かけた「舞妓さんになれます」とその店先で待っていた人力車が結びつきました。
カメラを構えて思わず「あっ」って大きな声が出てしまいました。「ナカシマ」。次男のクラブの後輩で前キャプテンでした。先月艇庫で人力車のバイトをしていると彼から聞いていて、「京都には面白いバイトがあるねえ。次男君がこんなバイトしてたら傑作だね」と家内と話していたばかりです。なんという偶然。こんな大きな京都の町でばったり会うなんて。ナカシマ君も気づきました。「ああ、こんにちは。今日はこちらを散策ですか?」「うん、銀閣寺から南禅寺までまでね。家内、初めてだったよね」と、お客さんが乗ってるのに・・・止めてしまいました。でもお客さんは、「知り合い?どういう知り合い?」「実はクラブの先輩の親御さんで、コーチもしてもらってます」なんて、お客さんも面白がっていました。「じゃあ、仕事がんばれよ」。

やがて帰りのバスが来て、4時前に自宅に戻りました。JR京都駅から銀閣寺まで220円でしたが、京都市バス1日乗り放題切符が500円であると、バスの中の広告に載っていました。次回はコレを買って、乗ったり降りたりしながら適当に回ろうと家内と話しました。
帰りの電車での家内との話で、家内の母親のお骨の分納先は南禅寺ではなく永観堂であることを知りました。私の勘違いのようでしたが、永観堂のパンフレットを見ていると、浄土宗であり家内の実家の真言宗ではないみたい。どうなってるのかなあ?浄土宗開祖の法然は比較的新しい人なので、真言宗で修行したからこれもありなのか?2つの宗派とフランチャイズ契約でもしているのか?家内の実家のお寺さんの本山なのに、何か変だなあ?日本仏教の流れと開祖はテストでよく出る問題なのできっちり暗記したのに、今では霧がかかりごちゃごちゃです。
またお寺さんから聞いた南禅寺の由来を教えてもらいました。永観堂の本名は禅林寺。その敷地の南側を譲って建立されたから南禅寺だそうです。へえ〜、そうなんだ。南禅寺の方がずっと大きい感じだけどなあ。
次男の後輩に、しかも人力車を引いている姿が見れたのはハプニングでしたが、楽しい印象に残る京都散策でした。

2007/7/16
925hpという強力な台風が沖縄に上陸しました。新西宮でも艇に被害が出た一昨年の台風とよく似た進路を取るという予報でしたので、やばいなあと思って、最接近の日曜朝に備え土曜の夜浜に行きました。
台風の進路が南に逸れ、和歌山の南海上を通るような予報になったこともあり、土曜の夜は小雨程度でした。新西宮YHは、陸上保管艇置き場も桟橋も照明が点いているのでましですが、夜中10時過ぎに1人で作業しているのは、何か不安です。ドラゴンのオーニングをはずし、バウとスターンにロープを結び4点でヤードリングに固縛します。船内の飛びそうなものをバウに突っ込みゴソゴソやってると、話し声が聞こえます。ハーバーに泊まっているのか外人さんが2人やってきます。「こんばんわ」てな感じで挨拶を交わしましたが、お互いに1人だったら、あんまりいい気持ちではないでしょうね。夜中に船に乗ってる私も怪しいですが、台風の晩に誰もいないハーバーを歩いてる人も怪しげです。
続いて係留してあるエ号の方に移動しました。ジブファーラーにスピンハリを巻いて、増しロープを桟橋から4〜5本取ろうかな・・・なんて段取りを考えながら船に着くと、すでにばっちり作業が終わっています。私のような素人技ではないので、これはイトウ君がやってくれたのかなあ。なるほど、あそこにああいうう風にロープを掛けるのねと、勉強させてもらいました。家に戻るとまだ10時半過ぎです。道路が空いていたこともあるのでしょうが、どうやら作業は30分程だったようです。
日曜日朝目覚めると、外はそれほど風もなく、台風はたいしたことないようです。本来なら一番ひどい時間帯だろうに拍子抜けです。NHKを見ると、既に台風の中心は和歌山を越えています。スピードも速くなったのかな?この分なら、土曜日から京都主催で琵琶湖で始まった7大学戦は、2日間フルに出来そうです。遠くから来る学校もあるので、台風が逸れてくれてほんとに良かったです。去年の西宮大会で現主将が「優勝校には琵琶湖一周の旅プレゼントします」と言ってたことはどうなったか気になりますが、運営でOBさんがたくさん来られるので手伝うこともないだろうし、琵琶湖行きはやんぺです。
家内は、買い物と美容院が本日の予定だそうです。美容院についていってもうっとうしがられるだけだし、スポーツ用品店・靴屋・車屋さんを回って帰宅、午後から再び浜に行くことにしました。午前中に買った新しいヘルメットを被り、颯爽とバイクで出発です。西宮体育館付近の渋滞もなんのその、バイクは軽快です。エ号の鍵を開けてビルジを点検するがバッチリです。電源を入れてトイレを流し、窓を開けて船の空気を抜き、ジブファーラーに巻いてあるスピンハリを解き、増しロープはそのままにしてドラゴンの方に回ります。
桟橋ゲートを抜けると、陸置きヤードをヒライさんが歩いています。ダンシングクイーンに着いて一時ヒライさんと雑談です。「ここに来る時、横を走ってたよ」。そういえばワーゲンが走っていました。昔のビートルのスタイルを残しながらデザインが洗練され、名前は一緒でもあっさり前のスタイルと捨て去ってしまう日本の車とは随分違います。前回のレースの話になり2人で出た旨を話し、もう1日早く2人ということがわかっていれば、ヒライさんにヘルプを頼んだとオーナーさんが言ってたと伝えると、ご実家にご不幸があったようで2週間バタバタしていたそうです。うちなんか親から始まった家なので大したことはありませんが、ヒライさんとこは昔からのつながりがあって大変そうです。うちの親父の相続は、やっとこ先週に預金関係が終わり、お袋にそれを伝えてやっとこ全てがクリアになったところです。亡くなってから5ヶ月でやっとですから、ヒライさんはこれから大変なのでしょう。
ヒライさんに教えてもらいながら、ダンシングクイーンのささくれているワイヤーを交換したりして本日はお終いです。

2007/7/8
日曜日はドラゴンのレースで浜に行ってきました。浜は、1ヶ月前のレース以来かもしれません。9時の集合時間の30分ほど前に着きフィッティングをしているとシブカワさんが到着です。「2人かもしれんけど、どうする?」。土曜日の夜トヨゾウさんから「出張続きで1日寝てたけどまだしんどいので行けないかも」と連絡を受けていましたが、やはり無理だったようです。次男に声を掛けましたが、B級ジャッジのテストと重なっており無理でした。「風が上がってきたら退散ということで2人で行きませんか」と答えました。トヨゾウさんは仕事で全国を飛び回っているので、移動での疲労が多いように思います。ヨットは所詮遊びなので、そちらを優先でいいんじゃないでしょうか。
2人でのドラゴンは1年ぶりぐらいです。チームメンバーの都合がつかなかった時、タワさんとこからヘルプしてもらって2人で出ました。その方は長く乗っておられる方だったので、上手にクルーをしてくれました。あの時やってくれていたことを思い出しながら乗ろうと思いました。朝は弱い北風で、これが収まって海風が入って来るまでレースが出来そうにありません。上架桟橋でしゃべりながら待機していると、オオノさんの腕時計が目に入りました。こないだ壊れてしまった私のと同じセイコーヨットタイマーです。「こんないい時計はないで」全く同感です。10年ほど前にリングを交換してもらったそうで、いやにきれいに新しく見えます。
10時を回って風が南に変わり出艇です。学生がレースをしているようです。レーザーもテーザーもレースのようで、この日はレースデイのようです。J24とドラゴンは、芦屋の沖で一番向こうの海面でレースをしています。いつものように、少しずつ風が上がってくるのでしょうが、2人ということもあり、あまり上がらないでほしいものです。ちょうど11時のスタート時間にレース海面に到着です。上下ソーセージコースを2周し1レース大体1時間ちょっとのコースです。ミドルとバウを1人でやるので、慌てず時間の余裕を持って、次の段取りを考えながらやります。シブカワさんが、ランナーやツイーカーなどを適切に調節してくれるので楽にクルーの動作ができます。スピンアップダウン・ジャイブも5m/sぐらいの風までは問題なく出来ました。シブカワさんが「クルーが1人だと、基本動作がよくわかるよな」の言葉通り、サポートしてくれる人がいないので諦めがついて、ミドルとバウの一連の流れが頭に入ってきます。
3レース目は6m/sぐらいまで風が上がり、スピンダウンの動作で息が上がります。3レース目で疲労物質も大分たまってきた感じで、4レース目はリタイヤして帰りました。オオノ艇もヤマムラ艇も同じくリタイヤで、次のレースはタナカ艇とタワ艇のマッチレースです。疲れを無理してやると、怪我したりトラブルを起こししそうです。3レースでハーバーバックしても、解装すると4時を回りました。その後関西ヨットクラブのウェットバーでオオノ艇の面々と最後にタナカさんが加わり、ウダウダ話して解散です。午前中はOPが1艇だけ出ていましたが、ハーバーバックする頃は10艇以上出てきていました。あいつらチビなのに元気です。いい1日でした。

2007/7/1
日曜日は先週に引き続き琵琶湖に行ってきました。今度は学生夏季選手権です。先週は大雨で大変でしたが、今度はいい感じの曇りで快適でした。たた、日焼け止め塗りを油断してしまい、学生から「大変なことになってますよ」って言われてしまう羽目になりました。
朝7:30にレスキューのあるハーバーに来てというメールをキャプテンから受け、7時に艇庫に着くように朝5時台の出発です。6時までに高速に乗ると、料金が半額になるので、何か得した気分ですが、やっぱり眠いのはかないません。
艇庫に着くと、既に選手たちはいません。いつものレースなら、艇庫前から出艇ですが、今年ここで行われる全日本の予行演習で、その会場のハーバーに参加全艇が集まり、そこからの発着になっています。みんなそっちに行っています。
多少の荷物を積んでサポート選手と共にハーバーに向かいました。着くとすぐに監督さんも着かれ、一緒に出発です。勇んでレース海上に着きましたが1艇も出てきません。風が弱く陸上で風待ちのようです。ハーバー沖に止めていると、陸上から電話で女子マネージャーのカタオカさんが1人ハーバーに来てるそうです。早速ハーバーに迎えに行きます。既に桟橋は船でいっぱいなので、停めている同志社さんんのレスキューにちょっと横抱きさせてもらってマネージャーを拾います。
男ばかりの中に1人女の子が入るだけで、やっぱりちょっと違います。彼女は明るいから特にいいです。中学の教育実習でかわいい生徒達に触れ、決まっている企業への就職の気持ちが揺らいだそうです。実習の終わりに泣いてしまったそうです。こういう感情豊かな先生は好きです。知識を得ることは一番に大切なことだと思うけど、やさしさ・うれしさ・悲しみ・悔しさなど感情を共有できる友や先生の存在を知ることは、世の中が素敵なところだと思う第一歩のように思います。それを体験するのも学校の大切な役目かなあと思います。
しばらく風を待った後、陸上の全艇出艇の合図で、続々とレース艇が出てきます。出艇前の声だしとかがハーバーから聞こえてきて、随分昔に経験したレース前の雰囲気を思い出します。レギュラーもそうでない選手もマネージャーも一体になってる感じがする円陣や「行くぞ」というキャプテンの言葉に全員で呼応する大声が好きでした。
マネージャーは、カナヤ君からヨットに乗ってる写真を頼まれていたようで、レース海面に向かう艇のいい位置に伴走して走ります。軽風から微風で1レース行われ、また風待ちで長い休憩です。カナヤ君とヤナセ君が1上10番手前半から、コース短縮したけど数艇抜いてきたのでいい感じです。ハラダ君は片手フィニッシュで、いいスタートを決めたスギノ君とマツミヤ君は風がないエリアに捕まって順位を随分落としたが、しっかり上がっていってました。順位に浮き沈みがあるのはヨットレースの常で仕方ありませんが、第1マークの順位を確実に上げていくのがレガッタ総合成績メイクにはとても大事なことです。ではこのレースは他大学ですがニシムラ君が下有利スタートを下一即タックを決めて、あとは一人旅でした。でもノダさんが今一のスタートからじりじり追い上げ、トップに迫る2位にまで順位を上げたのはさすがです。この水域のこの風域では今一番速いです。フィニッシュ後2人には声を掛けましたが、相変わらず気持ちのいい受け答えをします。さわやかなヤツラです。
長い風待ちの間は暇です。学生の頃は、こういうときは必ず「・・大学体育会ヨット部・・回生・・、風が吹くことを祈願して一発行きます」というのが始まり、風の神様へのいけにえとして飛び込んだり歌を歌ったりします。すると、他大学上回生から「お〜い、負けてるぞ〜」てな声が上がり、2人目3人目としばらく続きます。レスキュー上でちょっとそれをけしかけましたが不発に終わりました。いやシバタ君はやろうかなと思ってたかもしれません・・・レース艇の中心にある本部船横までレスキューを動かし、晴れの舞台を用意してやればよかったかもしれません。惜しいことをしました。彼はいつも高校野球部の時のユニフォームのズボンをはいています。単に身体に馴染んで丈夫だからが原因かも知れませんが、周りに左右されないポリシーみたいなものを感じます。上回生になってこれで速くなると、野球のズボンが早さの源と勘違いしてこの服装がはやるかもしれません。
結局次のレースは2時ごろスタートしましたが、風が落ちてノーレースになりました。全6レースで2日間のレガッタが終わりました。結果は4位でもう一踏ん張り必要ということになりました。うちもそうですが上位校も2〜3のOCSを叩いていたので、仕上がりはまだと言うか、まだ結果よりチャレンジしてこようという雰囲気でこのレガッタに臨んだようです。

朝日新聞夕刊に『甲子園アルバム』というコラムが連載されています。ちょっといい記事だったので掲載します。この日の副題は『鬼から仏へ』です。
『笑顔の名将甲子園の名将は何人もいるが、「スマイル」で知られたのは尾藤公(64)だ。和歌山県立箕島高を率いて春3回、夏1回の優勝。
「いやあ、ぼくもかつては子どもらを怒鳴ったり、ビシビシやるほうでした」少年の日、長嶋茂雄(71)にあこがれた。箕島高に入り捕手になる。投手が打ちこまれると監督にビンタをくらった。「悔しくて泣きました」。思えば根性野球全盛の時代だった。近畿大を1年でやめ、親類の世話で地元銀行に就職。でも、仕事にはあまり身がはいらない。「毎日さっさと仕事を切り上げては、母校のグラウンドで監督を手伝い、ノックしていた」
23歳で監督を継ぎ、銀行を辞めた。この年、逸材が入学してくる。東尾修(57)。のちにプロの西武でエース、監督。
その2年前、尾藤は銀行員としてスクーターで外回り中に中学の試合をみかけ、東尾の速球にほれこんでいた。中学卒業前、京都の私立校にさそわれたと聞き、東尾の家を訪ねる。まさに京都へ布団を送り出すところだった。
「4月からおれも監督1年生や。一緒に地元で甲子園をめざそう」。ミカン畑につれだして、くどき落とした。68年春、東尾の力投で甲子園に初出場、4強入り。「東尾との出会いが人生を変えましたわ」と尾藤。
70年春には、のちに南海入りする島本講平(54)をエースにかついで初優勝をはたす。だが、27歳で全国制覇した青年監督には強引なところもあった。チーム運営をめぐりOB会ともめる。ならばと選手たちに監督信任投票をさせた。全員が支えてくれると思ったら、不借任が1票。
やるせなくなり辞任した。ボウリング場で2年半働く。「あのとき、たくさんのお客さんに接して、謙虚になれた気がする」。箕島の監督に復帰した。
77年春の甲子園。まずい守備をしてベンチに戻ってきた選手に「大丈夫や。おまえのミスは計算に入れとる」と笑いかけた。「いつもそんな顔でいてくれたら、僕らやりやすい」と選手たち。
そうか、よし、それでいこう。「尾藤スマイル」が誕生する。チームの活躍で、ニカッと笑う顔がテレビで何度も流れた。

「なんで笑っとるんやろ?」
上甲正典(60)は尾藤のスマイルをみて首をひねった。愛媛県宇和島市で薬局を営み、母校の県立宇和島兼高でコーチしていた。
35歳で監督になってから愛媛大会の決勝までいくが、悔しい負け方がつづく。「天国と地獄。このままではやめられん」。選手をしごく鬼になる。
上甲にとって尾藤は「雲の上の人」だった。知人に紹介してもらい、遠征して練習試合をかさねた。87年、甲子園の初舞台をふむ。だが緊張して余裕がなく、笑えないまま初戦で敗れた。
その年秋の四国大会。愛媛の野球界の大先輩で、NHKの高校野球解説をしていた池西増夫(75)から声をかけられた。
「なあ、上甲君よ。スポーツって本来、楽しいもんやろ。そんな苦虫かみつぶすような顔でベンチにすわっていて、子どもが明るく楽しく、のびのびできるか?」。押しっけるのでなく、心をともに楽しむ。翌88年春、宇和島東は上甲のにこやかな顔に勢いづき、初優勝。「尾藤先生と池西先生。おふたりから教えられ、スマイルをやれました」という上甲はいま済美高(愛媛)の監督だ。

この春、阪口慶三(63)は大垣日大高(岐阜)を準優勝にみちびいた。準々決勝でスクイズを失敗した選手に向かって両手を広げ、おどけたしぐさをしてみせた。
東邦高(愛知)監督時代は「鬼の阪口」だった。88年春の決勝でスクイズに失敗、上甲の宇和島東に敗れている。
「あのとき僕はすごく怒った。それを思い出してね。子どもたちをリラックスさせないといかん。だから今度は、ものすごいジェスチャーで笑ったんです」
いまは「仏の阪口」である。名将たちの笑顔は苦労の裏返し、そして球児の心を知る境地なのかもしれない。  (藤島真人)』


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

Full sail
2006年3月、大学ヨット部を卒業する次男から素晴らしいプレゼントをもらいました。それは、卒業記念誌Full sailに数十ページに渡って書かれた次男の思い出の、プロローグとエピローグに書かれていた言葉です。

1.今、一番言いたいこと
私は最高にラッキーな人間だと思う。父親のおかげで幼い頃からヨットができ、これまた教育熱心な両親のおかげでK大学に入ることができた。この2つが実を結んだ結果として、「K大ヨット部主将」になれた。しかも「第70代」という大きなおまけまでついてきた。
本当に幸せな奴だと自分でも思う。

「環境が人間を作る」とはよく言ったもので、今の自分はまさにこの「K大ヨット部主将」という環境が作ってくれた。自分の考えに過ちがあることを初めて知った。自分の非を認めることを初めてした。初めて、人に本気で教えた。本気で伝えたいと思った。他人の気持ちを理解しようとした。組織を動かすということはこんなにも難しいものか、と初めてわかった。すべてが自分の思い通りになるわけではなかった。自分だけではどうにもならないものの存在を初めて知った。その結果、人生で初めて頼れる仲間・頼るべき仲間ができた。その仲間たちは和気藹々と楽しくやっていて、しかしその真ん中には「全日本インカレ」という共通の目標が芯としてしっかり通っていた。そんな仲間ができた。素晴らしい4年間であった。
この経験は、K大ヨット部があったからこそできたこと。、ヨット部を作り、現在まで熟成させてきた、歴代のヨット部員の方々。そのヨット部をずっと支えてきたOB会の方々。ともに戦ってくれた先輩・同輩・後輩たち。私をここまで育ててくれた両親。この場を借りて感謝の意を表したい。ありがとう。

中略

最後に両親へ。
最後のインカレ予選を見に行っていいかと聞かれたとき、断ってしまったことを今でも悔やんでいます。最終日を前にして、もはや負けることは分かっていたので、最終日だけでもきてもらおうと思いましたが、「今呼んだら、自分の中で負けを覚悟したことになる」という思いから、素直になれませんでした。本当に悔やんでいます。息子の最後の雄姿を見て欲しかったです。今の自分は紛れもなくあなたたちのおかげで成り立っています。今後はどのような夢を追いかけるかわかりませんが、温かく見守って欲しいです。

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
inserted by FC2 system