ウェブマスター日記 January-June/2007

Diary 兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブ 関西学院ヨット部 エルシノア
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2007/6/25
日曜日は、琵琶湖に大学ヨット部の手伝いに行ってきました。朝6時半、外は雨です。天気予報で、小雨ぐらいあるのかなあと思っていましたが、朝から降っています。このまま1日雨というのも辛いなあと一瞬やんぺしとこうかとも思いましたが、私が1人増えることで船が1艇出せる状況もあり、予定通り雨天決行することにしました。
琵琶湖に着くと天気が回復・・・を願ったのですが、降ったり止んだりです。レスキューの紫雲のあるマリーナに向かうも、紫雲の鍵を忘れ一旦艇庫にるというミステイクでちょっと遅れて練習海面に出ると、微風だった風が軽風程度にまで上がっています。
練習メニューになっていたボックススタートのマーク設定をして、ロング帆走練習から戻ってくるのを待って練習開始です。スタートは、いかに船をその場所で停められるかが勝負です。出来るだけその場で停まっていさえすれば、下にフリーウォーターが出来ていきます。スタートラインの下2艇身にマークを打って、そのボックスから出ないように船をコントロールする練習です。実際レースのスタートではあまり使わないバックや、走ってきてぴたりとそこに停めるブーム押し、裏ジブ、タッキング手前で再びスターボに戻す上に上るテクニック・・・いろんなものが必要になり、いざという時にちょっと使うとスタートが楽に切れるようになります。
龍谷の470がやってきて、合同練習です。スタートと上フィニッシュのレース練習をしました。この頃になると、風が更に上がり時折フルバランスからブローでメインを抜く順風です。風はいいのですが、雨が更に強くなり、時折視界があまり利かないほどの土砂降りも入ります。風の振れ幅も大きいので、スタート後インフレータブルに乗って、全速で上マークの打ち変えをしなければなりません。ただ上がりの部員もそれで楽しんでいる感じもします。エンジンをぶっ飛ばすのは気持ちいいものです。
カッパを着ていましたが、結局上半身は濡れてしまい着替えようと思いましたが、着替えは車と共にマリーナ駐車場なので何もありません。午後の出艇まで毛布を羽織ることにしました。午後から、フジワラさんが来られ、レース練習中心に午前中同様の大雨の中の練習です。でもいい風が常に入っており、有意義な練習になったと思います。
先週、小さい方の車にETCを付けました。無料キャンペーンというのがあり、それを利用しました。それと、音楽CDも作ったので、その2つがうまく行くか試すためにこっちの車で出かけました。ETCもCDもうまくいきました。音楽CDは最初、PCに保存してあったMP3データをそのままコピーしましたが、全然音が出ませんでした。調べてみると、MP3は通常のCDプレーヤーでは再生しないようです。PCに元から入っていた変換ソフトでコピーし直しました。時にはラジオばかりではなくて、音楽に乗って車を走らせるのもいいです。中島美嘉・伊藤由奈・熊木杏里・平原綾香、山下達郎も捨てがたい。
帰りの高速でも雨は止まず、土砂降りで視界が極端に悪くなる時もあり、ハイドロプレーンなども心配で、ゆっくり帰ってきました。久しぶりの大雨の1日でした。

2007/6/20
6/20は、奈良の高校生の長男さんが自宅に放火し、継母さんと弟・妹さんが亡くなった事件から1年です。事件の報道で、長男さんが父親から暴力を振るわれていた環境を知り、人事とは思えず、気になっていました。
事件から1年ということで、この事件を寄り深く掘り下げた本がたくさん書店に並んでいます。草薙厚子著『僕はパパを殺すことに決めた』という本を読みました。本人、父親・父親の祖父母、生みの母・その祖父母、亡くなった継母の両親、学校の先生・・・、いろんな人の供述調書を丁寧に並べてある本です。
この事件は、勉強で起こった事件ですが、スポーツや習い事など、親が良かれと、子供のためにと思って強いたことが事件の背景になることも十分考えられます。特に印象に残った部分を数箇所引用したいと思います。

著者の言葉
『小学校1年生、しかも1学期の通知表にクレームをつけることも異常だが、もう一つ見逃せないことがある。それは父親が母親のみならず、担任教諭の警告もないがしろにしたことだ。2人とも少年のためを思って、暴力をやめるように進言した。だが父親の行動を変えることはできなかった。
繰り返しになるが、父親は今回の事件の被害者遺族でもある。その悲しみは、私など第三者の想像もつかないものだろう。それでもあえて父親の暴力について書くのは、今回の事件から私たちは教訓を得なければならないからだ。わが子に虐待を繰り返す親の中には、「これは躾だ」「自分は愛情を持って叩いている」と主張し、それゆえに他者の忠告に耳を貸さない人がいる。この父親もそうだ。
母親をはじめ、何人かの良心ある人が、父親の暴力をやめさせようとしている。時には懇願している。父親には我が身を振り返るチャンスが何度でもあった。それでも父親は、暴力をやめなかった。それは、自身の行為が「虐待」であるという自覚に欠けていたからに他ならない。
程度の差はあれ、「愛のムチ」の名のもとに子どもに手を上げている親は、この父親の姿から何かを学び取ってほしいと私は思う』

本人の供述調書、
『小学校に通う友達が、塾にも通わず遊んでいる姿を見て羨ましく思えたからです。
僕の毎日は学校、塾、家でのパパとの勉強を中心とした生活で、たまの土曜日に、当時入っていた地元のサッカークラブで午後から2〜3時間するサッカーが唯一の楽しみでした。僕は、毎日厳しく勉強を教えるパパに対し、交通事故などで入院してくれないかなあ、仕事で2〜3日の出張や旅行に行かないかなあと思うようになりました。少しの間でもパパの勉強から逃げ出したいという気持ちからでした。
でもパパにはそのようなこともなく、毎日、同じ状態で勉強を教え込まれていました。この時の僕は、学校での成頼はダントツのトップでしたが、友達とテレビ番組の話をすると、まったくその話についていけませんでした。
このころの僕は、バターとチーズ、トースターと電子レンジの区別がついていませんでした。また友達のなかで歌手のSMAPやメンバーのキムタクの話が出ても、そんなことはまったく分かりませんでした。小さい時の記憶で、確か小学1年生の時の成績のことで、当時僕の担任をしていた先生がパパに家まで呼び出され、僕の成績のことで先生に何か言ったような記憶があります。
パパが僕に暴力を加えたり怒ったりした時は、ママが心配して書斎に何度か様子を見に来る時がありました。その時ママは、そんなに怒ったんなぁ、と言って僕をかばってくれましたが、パパはママに、お前は邪魔するな、と怒鳴って、ママを突き飛ばしたりする暴力を加えていました。
その後、弟や妹が生まれてからも、僕への勉強の教え方でパパとママが揉めたことが2〜3回はありますが、その時パパはママに、お前は、黙っとけ。いままで言わんかったけど料理もっと上手く作れ、お前は下2人の世話だけやっとけや。
と怒って、ママにも僕と同じような暴力を加えたことがあり、それ以後、僕がパパに怒られていても、ママはパパからの暴力を恐れ、見て見ぬ振りをするようになりました。また僕はママがパパから暴力を受けているのを止めようとはしませんでした。僕自身、巻き添えをくいたくなかったからです。』

著書の最後に載せている父親の調書が、事件の背景の大きな部分を語っているように思いました。
『いまだに、本当に息子が火をつけたのだろうかと半信半疑の気持ちです。しかし3人が焼け死んでしまったことは事実です。息子が自宅に放火し、逃げたことが事実なら、決して許される行為ではありません。自分のしたことの重大さを理解し、心から反省して罪を償って欲しいと思います。
しかし、息子をそこまで追い詰めてしまったことは、父である私の責任であると考え、このような事態になったことを誠に申し訳なく、私も心から反省しております。

私自身、今回の件があるまで、
自分も両親から厳しく育てられ、一生懸命勉強をした結果、そこそこの成績を上げることができ、医者になれた。自分にもできたことなので、自分の息子にできないはずがない。勉強して良い成績を修めなければ、良い学校に進学することはできず、結果として医者になるのは不可能であるとの思いから、息子に勉強を強いること、息子が勉強をすることは、医者になるためには絶対にしなければいけないことであり、その手助けをするため、父親として当然のことをしていると思っていました。
勉強に関して厳しく指導し、息子に課すノルマは次第に増えましたが、息子は何も言わず、必死にこなしてくれました。
息子は長男として、医者にならなければいけないと少なからず感じていたはずで、私の思いを長男として分かってくれているとばかり思っていたのです。

しかし今回の件が起こってからは、私の心の中では、
自分がよかれと思って息子にしてきたことはすべて間違いだった。息子のためと思ってやってきたことすべてが、重荷にしかなっていなかったのではないか。息子のためと思ってやってきたことが、聞達った伝わり方をして、結果的に(家族の)人生を狂わす結果となってしまった。という思いばかりが、止めどもなく押し寄せてきます。
本来なら息抜きし、癒されるべき家庭が、医師にならなければならないとの重圧を感じ、また私から乱暴されるのではないかとの恐怖を募らせる場になっていたのではないかと思います。
そのことで息子はどんどん精神的に追い詰められ、その結果もう何もかも嫌になって、すべてを消し去って逃げ出したいと思い、今回の事件になってしまったのだと思います。』

2007/6/18
日曜日はドラゴンのレースでした。先月のポイントレースは、父の法事と重なり参加できなかったので、久しぶりのドラゴンです。
朝、少し早めに浜に行って、オーニングをはずし偽装です。エクステンション・ティラーをつけようとすると、ジョイント部分の一方が浮いています。このままでは飛んでしまいそうです。ネジが浅いのが原因ですが、適当なネジがないので、旧エクステンションをセットします。その後、間違えないようにシートをブロックに通していると、シブカワさんとモリタさんが到着です。セールをセットし、船を下ろし、ほとんど風のない中出艇です。この日はクルーのポジションをすることになりました。最近スキッパーばかりしていたので、久しぶりのクルーです。
ハーバーを出ると、既に風向は南になっています。午後はいい風に恵まれそうです。いつものレース海面では、インターハイ予選をやっています。もっと沖でレース海面を設置するのかなと思っていましたが、本部船が設置されたのは、ハーバー西出入り口前です。インターハイ海面までのエリアで、上マークがちとややこしいかもしれません。第1レースは3m/sぐらいでいい感じでスタートしました。でも、のぼり角度が悪く落ちていきます。おかしいなあ?と思っていると、すぐ上を走っていたヒライさんから「ランナー逆やで」との声。下側のランナーが利いています。すぐにやり直して走り出します。あちゃちゃ。
少し風の上がった第2レースは、スタートで上1を狙いましたが、上のデンジャラスラインを割っており、追い出されて本部船上で1周回りなおしました。スキッパーやってた時、こういう場面を下艇として2度経験しましたが、どちらも少しベアしてスペースを空けました。ベアする必要はないけれど、自艇も他艇も壊してしまうのは避けなければと思ってしまいます。「ベアしますわ」って言っちゃうんですね。今回の下艇のタナカさんは、さすがにレースに厳しく、うまく避けるだろうシブカワさんの腕も信じて、「入られへんで」。
更に風の上がった第3レースは、上1ジャストスタートでした。すぐにメインの窓から下艇が見え出し、トップスタートです。上マークへのポートアプローチは3番手ぐらいでしたが、最終見通しに乗ってるスターボ2艇の下タックかベアかで迷いました。上マークでのごちゃごちゃを気にしてベアを選択しましたが、あそこは下タックで果敢に攻めた方が良かったようです。う〜む、私の判断ミスです。
下マーク回航で、スピンの収納をミスり、バウをくぐらせてしまいました。スピンダウンとスピンシートから風を抜くタイミングが難しいです。クルーとミッドクルーの息が合わないと。久しぶりにスピン収納ミスをやってしまいましたが、その後がいけません。スピンが破れたというより、裂けてしまいました。破れから考えてスピンを引っ張りあげるのはやめて、シートをはずし収納しました。あの状態でスピンに更にテンションをかけると、何処までも破れていってしまいそうです。
フィニッシュして次のレースはリタイヤしハーバーバックしました。帰る途中、やけにフォアステイがだらだらしています。どうやらバックステイが切れたかテンションが抜けたようです。ハーバーに戻ると、2人でレースに参加していたヒライ艇とオオノ艇が既に戻っていました。8m/sほどに上がった風速では無理をしないことにしたようです。うちの艇は十分コントロールできていたので、あのミスは痛かった。もう1レースしたかったなあ。8m/sまで風が上がるとトラブルは他艇にも出たようで、スピンは数枚破れたようです。セールメーカーは喜んでいるでしょう。
船を片付け、KG艇庫に向かいます。KGヨット部70周年記念誌のために写真が必要ということで、マネさんから頼まれて、ハンディーHDに多数の写真をコピーして持って行きました。でも、PCを持ってくるようにということが伝わらなかったようで、PCがなくコピーできませんでした。USB接続できないPCはあったけど、どうすることもできません。CDで郵送ということになりました。
続いて芦屋に回り、OPナショナルチームに寄付を持って行きました。清風高校のニシムラ先生と会い、この日のインターハイ予選の結果を聞きました。清風から3艇、KG2艇、啓明1のようです。ドラゴンのレースから帰って来る時、清風レスキューに会い挨拶しましたが、「あれシブカワだよな。もう1人はモリタ?」と先生から。先生は同志社だったけど、先輩2人と同期です。シブカワさんとは、大学卒業以来ということでしたが、覚えているものですね。
去年OPに参加されたニシムラ君のお父さんが、OPを始めたばっかりのチビッコを集めて、最後のミーティングをしています。まだ2年生のニシムラ君とカリンちゃんは、とてもかわいいです。2人で練習に参加する日を決めて一緒の日に練習に来るようです。これから少しずつ同学年も増えるでしょうが、クラブに同じ年の子がいるのは楽しいことです。ぼちぼち続けて、秋のレースにでも参加すると、他クラブにも同学年の友達が出来て、もっと面白くなるでしょう。
兵庫ジュニアのナショナルチーム壮行会が、この後あるようでしたが、寄付を渡して先に帰ってきました。この日は車で来ていたので、バイクのようにスイスイと渋滞を抜けていくことが出来ず、ゆっくり家に戻りました。家内の食事を作ってもらい、いい感じの疲労感とともに早めに休みました。

2007/6/11
日曜日は、OP関西選手権を観覧しました。
泉大津にクルージングという話もありましたが、結局メンバーが集まらず、琵琶湖での学生レースとの天秤で、スポンサーレースの状況と、遠くから来られるお母さん方に少しでも海上で見る機会が出来ればと、地元レースを優先しました。
次男君は琵琶湖のレースに行くようですが、私は朝9時前に浜に向かい、船のエンジンを回すと快調にかかります。 芦屋のOPレース事務局のマルヤマさんの電話番号登録をしていなかったのでタナカさんに、「観戦希望者がおられれば、連絡ちょうだい」と電話を入れておく。 船の空気の入れ替え、トイレ掃除などして、読書の体勢に入ると、「希望者がいるんですけど」と連絡が入りました。 新西宮の方に回ってもらうことにして、本を持ってハーバー本部に向かって桟橋を歩き出します。 ナカムラ艇が出艇の用意をしていて声をかけ、モリモトさんも向こうからやってきて、クルージングにでも出るようです。
ハーバーデスク前で、パンフレットや本を読んでいると、ヨシダさん先頭に4人のお母さん方が入ってこられました。 広島のムラタさん、琵琶湖のニイタニさんとワキさんです。
早速船を出し沖の本部船を目指します。 既にレース艇は本部船の回りに集まっています。 芦屋沖の海面ではFJの兵庫国体予選が行われているようです。 レース海面に着くと、ちょうどスタートしたところです。 11時前ですが既に南風が2〜3m/sほど入っており、いいウインドコンディションでレースが出来そうです。 第1レースのトップ回航はウシオ君です。 この風向では有利な右海面を選択したのでしょうが、このメンバーの中でよく走っているようです。 うまくなったなあ。 レース後、スピーディーに次のレースが始まりました。 だらだら風待ちのないレースは気持ちいいです。
トップ集団が下マークを回った頃、北からのブローが入ってきました。 2レース目が始まる頃から、六甲山や甲山・宝塚などの上空に局地的な雲がかかり雨が降ってる感じでした。 風向から言ってこっちには来ないと思っていましたが、この北風のブローとともに海上に雲が流れてきました。 そして雨です。 2レース目が終了する頃、フィニッシュマークに、AP/Hが上がりました。 なぬ?ハーバーバック?。 雷はなっていないのに、随分慎重だなと思いまがら、西宮に戻って陸上で昼食を摂ることにしました。 帰る途中、雲の中で稲光が2つ。 FJはそのままレースをしているようでしたが、50艇の小中学生のレースだから早目の判断は正解ですね。
関西ヨットクラブ3Fのレストランで昼食を摂り、再び出艇します。 1時半ごろ西出口から出ると、ちょうどOP艇が運営艇に引っ張られて沖に向かうところと一緒になりました。 レース海面に着くと、朝の風は跡形もなく無風です。 2時過ぎに再び南から海風が入ってきました。 第3レースも3m/s程の風の中で始まります。 レース自体は、OPが50艇も集まりいいレースでしたが、途中の雷雲がなければ、最高のコンディションになったろうと思うと、少し残念でした。
このレースは、ヤンマーさんがスポンサーになってくれて、OP全艇のバウ左右にステッカーが貼られています。 さらに「海チャンネル」のレース取材も入っており、至近距離からカメラが回っていました。 TVで何度か見たレポーターの女の子も乗っています。 朝の感じでは6m/sぐらいのフルハイクアウトの映像が撮れると思ったけど、まあまあの映像が撮れたかな。 また番組テープを許可を得てジュニアのHPに載せたいものです。 それにしても私が現役OPパパだった時は、何とかレースが出来る程度だったのに、最近の親御さんの能力は高く、これぐらいの規模のレースだと何の問題もなくやってしまう感じです。 すばらしいです。

2007/6/4
日曜日は、エ号の船底メンテナンスでした。 1年前に船底塗料をプロに塗ってもらいましたが、あれから1年、船底はどうなっているでしょう? 喫水線付近には藻が着いていますが、艇速もそれほど落ちておらず、しっかり塗料が効いている感じがしますが、果たして? 10時に浜に着き上下架桟橋に移動です。 期待と不安を持ちながら、エルシノアがクレーンに吊り上げられ上がってきます。 フジツボなどが着いているのは、キール後縁・下縁ぐらいです。 塗料もそうですが、プロの技もあると思います。 また1年間適当に走った証明でもあります。 金属コテでガリガリ落とし、高圧水流で全体的にうっすら着いている水垢のようなものを吹き飛ばし、洗剤でサイドボトムをタワシがけして終了です。 昨年の経験から雨合羽に帽子・メガネで完全武装しましたが、船底メンテナンスは思いのほか楽でした。
上架のときにメンテナンスする予定だったもう一つの課題に取り掛かります。 トイレの給排水とシンクの排水です。 パイプの船底部分には海洋生物がたくさん着いています。 棒でそれを落とし、高圧水流を下から突っ込みます。 船内から水を流すといい感じで流れるようになりました。こちらも楽でした。
下架してバースに戻り、シンクなどをチェックしていると、コボリ先輩がやってこられました。 「そんだけのことで上架するのはもったいない。俺なんかもぐってするで」とのお言葉。 う〜む、せめて淡路島とかきれいな海に行った時にお願いしたいものです。 西宮の海にはもぐりたくないなあ。
ハーバー3Fで昼食をとり、ヤンマーの社長さんが来るかもしれないとモリタさんは残りましたが、3人で神戸まで行くことになりました。 新調したスピンハリ・トッピングの試運転もあり、ハーバーを出てスピンを上げることになりました。 ハーバーを出てからスピンの準備をしたので、セットできた時には、六甲アイランド沖の白灯台付近でした。 スピンはきれいに上がり、東風を受けて、颯爽と六甲アイランドと防波堤の間を走る予定でしたが、スピンがフォアステイに巻き付いてしまいました。 一旦下げて再び上げましたが同じです。 バウでスピンを上げてからアフターガイを引くために後ろに戻るのですが、その時には既に巻きついていて、ガイを上に引けません。 前もってアフターガイをもっと風上側に持ってきとかないといけないのはわかってるけど、ドラゴンのレースでは必死になるのに、別にいいんじゃないの?スピン破っても仕方ないし、みたいな感じで気持ちが乗りません。 結局下ろしてしまいました。
六甲アイランドを抜ける頃、沖から巨大コンテナ船が入ってきました。「そこに着けるから、北寄りに避けてね」と、警戒船からマイクされました。 そのまま六甲アイランドと神戸アイランドの間を北に上がり、橋をくぐってHAT神戸の岸壁に入ります。 正面に「なぎさの湯」があり、奥にはYAMADA電気が見えています。右手には県立美術館が見えます。 この湾岸線の橋ですが、神戸空港連絡橋の24mより低く、18mと書いてありました。 この船のマストは多分14mは越えないだろうからまだ余裕です。 でも橋の下をくぐる時は、独特の「もしも」の恐怖感があります。
帰路は、クローズのタッキングとも思いましたが、機走で帰りました。 行きのときに入ってきたコンテナ船からコンテナがどんどん下ろされています。 クレーンが船の上に動いてきて、それが降りるとすぐにコンテナをつかんで上がってきます。 4基のクレーンが取り付いて、あれだけ大きな荷物をスピーディーなものです。 左舷に救命ボートのカプセルが数個と、中央のコントロール船橋横に、どんな荒波でひっくり返っても大丈夫そうな救命ボートというより、救命潜水艦様のボートが乗っていました。
このボートですが、どこかでその訓練の様子を映像で見たように思います。 船橋でボートに乗り、滑り台のようなものを滑って海に降ります。 そのすべり台が恐ろしく急で、遊園地の急流すべりの最後の見せ場のように水に突っ込みます。そして浮き上がるような感じだったと思います。 シートベルトをするのでしょうが、実際に乗っている人は、どんな恐怖で、船内はどんな様子になるのだろうと思ったことを思い出します。 予報では昼頃小雨という日でしたが、雨も降らずいい感じの曇りで、快適な1日でした。

2007/5/28
日曜日は、琵琶湖に行ってきました。手伝ってる大学ヨット部の練習です。今年は、法事が続きなかなか参加できませんでした。今年のシーズンが始まって、新人勧誘試乗会に続いて2度目です。
高速を琵琶湖に向かっていると、サングラスがいる天気です。「いい天気だなあ、でも日焼け対策をしなけりゃな」なんて思いながら、高速を降り湖西バイパスを走ってトンネルを抜けると、眼下に琵琶湖が見えてきました。全体的にブローが入っているようで、陸上での風待ちは今日はないかなと期待が膨らみます。湖上での風待ちになっても、学生君やさん達との会話は楽しいが、うだ〜っとしてるヨットは、つまらないものです。
艇庫に着いて、偽装を終えて細かいチェックをしている選手たちのところに行って出艇時間を確認します。カナヤ君達が、メンハリとジブハリがマスト内で絡んだようで直しています。出艇時間に合わせて着替え、艇庫前での体操に加わっていると、OBになったばかりのユキナガさんが艇庫から出てきました。今日は練習に参加なんだと声をかけると、なんと次男君が出てきました。「なんじゃあ?来てたのか」。などの親子会話を聞いて、ユキナガさんが笑っています。「男の子だからなあ。男親が行動をチェックしないしなあ」と思いながら、世のお父さんはどうなんだろう?なんて、ちょっと思いました。
出艇ですが、いつも沖に停まってる紫雲というハードレスキューがありません。いつも、土曜日の朝それを置いている近くのハーバーまで取りに行き、日曜日にも練習するので、土曜日の晩は艇庫の沖に停めています。日曜日の朝、インフレータブルゴムレスキューでそこまで行き、2艇でレスキューしています。聞くと、湖底に沈めてある固定アンカーから浮きで浮かしてあるロープがなくなってしまったそうです。だから、日曜日の朝も再びハーバーまでレスキューを取りに行くことになりました。
レスキューで沖に向かうと、関々同立定期戦のレース艇が、柳ヶ崎ヨットハーバーからと、同志社艇庫から出てきます。ミシマ君と2人で、まだ艇庫前からそれほど練習海面に向かって進んでいない1回生のシーホッパー艇のところに行くと、彼はまだ2回目のヨットで、初めてティラー操作をするそうです。前回はミシマ君がスキッパーをして、それに乗せただけだったらしい。そりゃ、わけがわからなくて普通ですね。ということで、ミシマ君が乗り移ってアドバイスすることになりました。
という経過で、ハードレスキューに1人で乗ることになりました。470やスナイプがロング帆走練習しているのについて走っていると、向こうからKGスピンの3艇がやってきます。近くに来たので応援の声をかけると、「こんにちは」と大きな声で答えてくれます。休憩中のようだったけど、わざわざ立って挨拶してくれて、なんか申し訳ないです。優勝のチャンスだから、がんばってほしいです。続いてKG部旗を揚げたハードボートがレース海面に向かってきます。コウノ監督や部員がたくさん乗っています。こちらにも声をかけて、再び練習に戻ります。
朝のミーティングでショートラウンディングの練習ということになっていたので、次男君と1回生が2人乗ってるインフレータブルがマーク設置しています。そこにみんな集まってきてその練習開始ですが、風が振れていてマーク打ち替えでインフレータブルが忙しそうです。なんか練習効率が上がらないなあと思い、1つのマークだけでできるキャッチアップの練習に切り替えました。この練習は、マークが1つで出来ることと、マーク回航が接戦になり、トップ艇がコロコロ変わるので、結構エキサイティングになります。上マーク見立てと、下マーク見立てを数回やってると、一旦風が落ち、北寄りのいいブローが入ってきました。
風が上がってくると、マークでの接戦は船を傷める危険が増すこともあり、ロング帆走練習をすることにしました。フルハイクアウトでヨットが一番かっこよく絵になります。こういう絵を撮ろうとビデオを持ってきたのですが、1人ではどうしようもありません。午後に期待しましょう。470について走っていると、レースのサイドマーク付近に来ました。ちょうどスタートした470がこっちに向かってきます。ライジャケの上から白いビブを着たKG艇がいいパフォーマンスで走っています。その上にはリッツさんがいます。練習から離れ、そちらを見ていると、KG艇は上手にパンピングしています。去年1回生で全日本学生個人を制したイチノ/サトウ組のようです。私と上マークの間でタックしてポートで上に向かいます。ミートかなと思っていたリッツ艇のバウを切りました。
これから右海面に出てタックしてきたスターボ艇のバウを切りに行くのでしょう。遠くですがスターンの方からイチノ艇を見る角度になり、遠めでもコンスタントにパンピングしています。トップレーサーがみんなやってるパフォーマンスです。練習に戻りながらもレース海面をチェックしていると、予想通りイチノ艇が2位に大きな差をつけてトップ回航しました。スナイプではどうかわかりませんが、470ではかなり有効。私も学生時代はあのテクニックで、吹いたらほとんどトップでした。なんでみんなあれをしないんだろうねえ。途中関大のレース支援艇にも出会いました。田中さんとこの船と、関大のインフレータブル2艇出ています。カイザー艇がエンジントラブルのようで田中さんがカウルをはずして直していたりしてました。
昼からの風を期待しながら艇庫前に帰着です。艇庫に上がると、女子マネさんのきれいどころが数名、「お疲れ様」なんて言ってくれます。「おお〜、1回生のニューフェイスさんもいます」。いくつになっても、嬉しいものです。食事をしながら、キャプテンに断って自己紹介をしました。そして、食べながらでいいからと、午前中に感じたことを話す。
新人のコリンさんが午後から参加ということで、チーフマネさんと男の子がドライを持ってきます。彼女は留学生で背が高いので、男の子のがピッタリです。試乗会の時も来てて、試乗会には数度参加したはずです。午後からの練習のために出艇です。トキワさんと2人でハードレスキューに乗り、ムラヤマさんを柳ヶ崎YHに迎えに行きます。
この新レスキューは快調に走ります。ただ前進・後進レバーとスロットルレバーが別になってるので、桟橋につける時などで、後進を入れて止める時が2アクションでほんの少し時間がかかり、慣れが必要です。ムラヤマさんによると、柳ヶ崎に私の後輩のKGヨット部員がたくさんいてたとのことで、今年のこのレースは、立命館主催のようです。帆走練習・コース練習・キャッチアップと強弱の風の中でメニューをこなし、いい練習ができました。着艇6時で、他校はみんな帰ってしまった湖上を独占して走り回りました。
最後大津港前から夕日の作る光の筋をフルバランスでクローズで突っ走るヨットは絵になります。こんなのを見てしまったら、それを自由に操る男の子に惚れちゃうよ。でも、如何せんそれを見せる機会がありません。大学4年の時、仲間とスポーツクラブを作って、スキーツアーバスを数十台出しましたが、私のようなヘボインストラクターでもえらくもててしまいました。体育会で一生懸命やってるヨット部員の方がずっとかっこいいのにと、あの時はうかばれないヨット部員を憂いました。
最後、レスキューをハーバーバックさせてお終いです。ポンツーンと艇置き場に囲まれた狭い水路を入り、直角に曲がって、左右に金属杭の間の1艇分のスペースに入れないといけません。風向と波を計算し、ゆっくりゆっくり曲がって入れないといけないので気を使います。でもトキワさんは、難なく入れてしまいました。スピードといい、安心してバウのロープを取りにいけます。午後はずっとトキワさんがドライブしていましたが、ヨットと接近して走れるようになったし、ハーバーへの着艇も上手なものです。免許を取って、クラブの練習をサポートして、もうベテランドライバーです。みんなも大いに助かっているでしょう。
ミーティングの最後までいて帰ってきました。TOEICのテスト日で、4回生が4人もお休みでしたが、いい練習でした。楽しませてもらいました。

2007/5/21
日曜日は、ドラゴンのポイントレースでしたが、父の100ヶ日法要と納骨のためにお休みしました。年末の義理母の死去に伴う法事が一段落後、父の死去があり、この日の納骨で我が家の方は一段落です。実質も名目上も戸主になってしまったので、いろいろ中心で経験できました。義理母の納骨が、義理姉夫婦のお墓建立に伴ってご先祖のお墓を隣に移転することで伸びており、7月のお墓の開眼法要と義理母の納骨で、家内の実家の一連の行事も終わります。ほぼ毎週大変でしたが、育ててもらい家を次の代に
繋げた親の恩を思うと、これぐらいのことは当たり前です。
朝起きると、長男が帰ってきていました。私が寝てから帰ってきたようです。西日本方面への出張に引っ掛けて、とはいうものの長男は毎回東京からご苦労なことです。
10時の法要に向けてのんびりやっていると、家内から「9時からだよ」と。慌てて父の残務処理の書類を整え、着替えて、母親の家の支度を整えます。ありがたいことに、弟夫婦も母も事後のことを私達夫婦に一任してくれているので、気楽にやれていますが、途中経過などみんなに報告することはきちんとしていかなければなりません。子供達にもいい見本になればと思ってやってます。でもまあ、いろいろあります。
法事が終わり、家族への途中経過報告が終わり、納骨のためにお墓に向かいます。お寺さんが、他の法事に重なり、副住職さんがお墓の方に来てくれることになりました。副住職さんは、住職さんの娘婿さんで、お寺を継いでもいいということでサラリーマンを辞め、仏教大学に入学し資格を取り、今は親子でやってるそうです。住職さんもホッとしておられるのでしょう。お寺さんだけは、ちょいと移転というわけには行かず、世襲が一番スムーズな職業ですからね。
お墓に着くと、あいにくの時雨模様です。時折、小雨がパラつきます。納骨の申し込みをしていたのですが、この日に永代供養権利書に名前を記入することを知らず、持ってくるのを忘れてしまいました。銀行の貸金庫に入れっぱなしです。位牌を持って納骨は滞りなく終わりましたが、墓石に刻まれた父の名前を白字に変更し、横の墓標に父の名前を刻まなければなりません。それを事務所でお願いすると、5万円也とのこと。パラパラと支出が続きます。帰りに弟家族と食事を取ろうと、小さい子にはどうかと思いましたが、イタリアンレストランに入りました。
おしゃれな落ち着いた外観でしたが、あまり期待していませんでした。母親が街中に入ると混んでるかもしれないからと、ここにしようと言うものだからそうしましたが、これがとてもおいしく大好評でした。弟がよく雑誌で紹介される有名なお店だと教えてくれましたが、私は全然知りませんでした。弟のとこのチビさんもパスタやピザをパクパク食べ、大正解でした。
お店に入ったとき、総勢9人で、いろいろ考えるのが面倒な家内は、コースでいいんじゃないと提案しましたが、長男から、いろんな種類を注文して取り分けたらいいよと。「じゃあ任せるわ」ということで、長男が上手にみんなの選択を引き出しながら注文してくれます。さすが宴会隊長です。家族内だけなら私が仕切ってうまくやってきたつもりでしたが、長男はもっと大人数でも平気でうまくやってしまうので脱帽です。
お店の人が、テーブルを2つくっつけて10脚の椅子を用意してくれましたが、人数は9人でちょうど中央の席が空きました。それを見て、保育園に行ってる姪が「ここはお爺ちゃんの席」ってニコニコしています。この子はただ一番小さいから場を和ますというより、天性の何かを持っている感じがします。よくしゃべるのですが、そのおしゃべりがこの年齢の子にありがちな自分本位のばかりではなく、周りの人を惹き付ける何かを含んでいます。ありがちなひつこさもなく、人から好かれる要素満点です。保育園でもいつも話題の中心にいるそうで、女の子ということもあり、お得な人生を歩みそうです。
次男が就職活動の話をしてくれました。どういう結論を出すのかわかりませんが、行きたい会社は私も知ってる会社で、社長さんとも話をしたようです。自分に期待してくれていると次男は感じているような空気を次男の話から感じ、出来ればそういうとこで、入社早々自分の会社という気持ちでがんばってほしいなと思いました。期待されていることほど、気持ちを前向きにすることはないですし、生きがいやりがいを持って仕事をして欲しいものです。
2時前という予定より早く家に戻ってきました。浜に行ってドラゴンのハーバーバックを出迎えるのも考えましたが、子供が小さかった時からのVHSビデオテープをデジタル化してDVDに落とす処理をすることにしました。1本2時間ほどのテープが10本弱と、30分ほどのミニVHSテープが数十本あり、いつ終えることが出来るかわかりませんが、手をつけ始めました。この日処理できたのはまだ次男が生まれる前の2本だけでしたが、かわいすぎる長男の姿を見ながら、あの頃の事を思い出しました。
私も家内も一生懸命で、亡き父もまだ若く、子供がどれだけ家族を1つにするかを再認識しました。子供達と喧嘩もせず、「お父さん」なんて今でも気軽に声をかけてくれるのは、ありがたいことです。家族は何物にも代えがたい宝物ですね。

2007/5/14
日曜日は、浜に行ってきました。琵琶湖行きも考えたのですが、4大学定期戦の幹事校なので、何かと大変かもしれないと遠慮しました。次男はOBなので運営に行ってました。
エ号を陸揚げして、整備の予定になってました。船底にいろんなものが着いているだろうから、高圧水流と物理的ゴシゴシで落とさなければなりません。その後クルージングということでした。約束時間も特にないので、10時頃浜に着きました。バイクを停めると、
ツインスターメンバーの花崎さん・坂東さん・山本さんが生協さんの方に歩いて行かれます。買出しなんでしょう。「整備なんてやめて、一緒にクルージングしよう」と誘ってくれました。 船に着くとエ号メンバーはまだ誰も来られていません。南西のいい風が入っており、エ号が桟橋に吹き寄せられています。フェンダーがへこんでかわいそうなので、もやいを調整し少し桟橋から離しました。船側のもやいの端止めが取れて、シートがほぐれてきています。まずトイレを流して、パイプのつまりを少しでも予防です。次にテープとはさみを用意して、シートを直します。気づいた時にやっとかなきゃね。
ゴソゴソやってるとシブオさんが到着です。今日は集まりが悪いので上架は取りやめだそうです。雨合羽に炊事用手袋も用意しやる気満々だったのに・・・と思いながら、助かったとも思いました。また次回ということですね。
キンノさん到着です。本日のメンバーはこの3人だけのようです。イトウ君に教えてもらい購入したピカールを出してきて、何か錆みたいなのが浮いてきてるスタンションをウエスでこすると、簡単にきれいになります。2時間ぐらいあれば、スタンション全部きれいになるかなと作業に入ると、「メシやぞ〜」との声で、いきなり挫折です。スープとキンノさんおごりの弁当でおなかを膨らませ、会話が弾みます。ツインスターさんからのお誘いのことを話すと、「それやったら、こっちに来てもらってこの船で一緒に行こうか」という話がまとまり、小用で外に出ると、ちょうど向こうからツインスターの先輩方が、アルコールをつまみを持ってこっちに来られます。そのまま少々歓談して、北港のメルボルン大阪ダブルハンドレースのレース艇を見に行こうということに話がまとまりました。1時過ぎの出発です。この日は風が強く、11時頃から練習をやめた学生艇が、パラパラと帰って来ていました。桟橋前のテトラポットに吹き寄せられている艇もいます。東出入口から外に出ると、防波堤の返り波もあり、船がよく揺れます。この風向ではいつものことです。ジェノアを半分出すとかなり船は安定し、白灯台から北港YH目指して4〜5ノットです。砂利船が波をさえぎるところまで来ると、さらに走りやすくなります。白灯台を越え、北港に向かってベアすると、後ろからの風になり、暑くなってきます。まだ暑い風ではありませんが、季節は確実に夏に向かっています。ゴミ焼却施設が陽に輝いています。いつ見ても異様ですが、きれいで遊び心があるので、嫌いではありません。でも税金のムダ使いと批判されるだろうな。YH横の遊覧ヘリポートで、ヘリコプターがホバリングしています。練習でもしているのでしょうか?
ハーバーに入ると、マストまで黄色の大きな船が目に入りました。他にもレース艇が並んでいます。いつものゲストバースはいっぱいなので、係留艇置き場の一番外のバースに着けます。陸上に上がると、レースの一環なのか、海賊の格好をした人がいたり、南京玉簾のパフォーマンスをやってたり、売店ではレースTシャツなども売っています。いい天気ということもあり、適当に人が出ています。さてと、桟橋に向かい係留レース艇見学です。ネットに出ていた船の実物が並んでいます。ツインラダーのW60クラスの大型艇から40フィートもないエ号とさほど変わらない艇まで、太平洋を縦走したツワモノはそれなりの風格が漂っています。「乗っていいよ」と言われて、先輩方は乗っています。この船はGustoで、途中トラブルで修理に寄った島で相棒が降りてしまい、南太平洋から1人で操船してきた船です。レースのレギュレーションに合わないのでリタイヤになりましたが、大洋を渡ったパフォーマンスはすごいです。遅れを取り戻し紀伊半島手前ではついにトップに立ちましたが、最後は再びのトラブルで3位フィニッシュでした。さすがにW60クラスの船は速いです。
ツインマストのココリンや、「FOR SALE」と売りに出されている船もあります。オーストラリアからやってきた船は、また回航しないといけないから、こっちで売っちゃおうということなんですね。トップフィニッシュしたアレックスもあります。この船は親子で乗り込んだ船で、喧嘩もせず、レースの1ヶ月で父息子の関係がより深まったことでしょう。見覚えのあるWild Boarが並んでいます。新西宮のすぐ近所のバースに停めてある船で、エ号と大きさがあまり変わりません。ごく普通のクルージングヨットの体型なので順位は下から2番目でしたが、オーストラリアから太平洋を渡ってくるなんてすごいです。
夜、TVを見ていると長渕剛が出ていました。子供との関係を、「親というより友達というか仲間という感じでやってきた。こいつらに親をさせてもらいありがたかった」としゃべっていました。親子として暮らせるのはたった10年ほど、自分もそうだったが、子供達も巣立っていった。小学校の参観日などには積極的に参加したそうで、ほんとに楽しかったと話していました。なんか私ととても似た感じで子供達と接しておられたようで、いっぺんに親近感を覚えました。

2007/5/7
日曜日は天気予報通り朝から雨でした。同じ雨マークでも、0mm(気象庁は切捨て主義なので、0〜0.9mm)や1mmだったら、どっかに行こうと予定を組むのですが、3mmともなるとめげてしまいます。
朝起きてまず散髪です。ちょっと前から懸案になっていたのですが、これでさっぱり出来ました。家に帰ると既に家内はどっかに出かけています。用意してくれた朝食を食べ、紛失物の捜索です。どうしても家では見つからず、船に忘れたのかと淡い期待を持って浜まで捜索に行きました。でもやはりなく、少し落ち込みながら、学連レースの成績表をチェックして帰ってきました。母校470はダントツの強さで、スナイプもいい感じで走っているようです。
その後夕方までに、東京に行く次男を送り、広島に行く長男を駅まで送りました。長男は連休で帰って来る時、同期とゴルフに行くのでゴルフバックと着替え、それに仕事バックと大荷物でやってきましたが、スーツに着替え仕事バックを持ってビジネスマン風で行きました。他は、天下の宝刀宅急便です。
「靴、忘れた〜」家を出る時、特に悪びれることもなく、それほど困った風でもなく、ほざいておりました。「ゴルフシューズは忘れへんかったんやけど、ビジネスシューズを忘れてもた」。足元を見ると運動靴です。ビジネススーツに運動靴は、やはり合いません。「広島で買うわ」とのこと。駅の階段を上がっていくアンバランスな長男を見ながら、「おもろいやっちゃ」そして「平気なやっちゃ。大物やなあ」と思い見送りました。

2007/4/30
日曜日は、琵琶湖に行ってきました。 次男の大学ヨット部の新人勧誘試乗会の手伝いです。 親父の死去で法事ばかり続き、今年初めての琵琶湖行きです。 ここ数年、3月合宿に1〜2度顔を出していたのに、申し訳ないことです。
10時前が集合時間でしたが、8時ごろ家を出て9時頃正門に着きました。 正門横に車を停め、吉田神社の方を見ると、鳥居の下でボーイスカウトの親子が写真を撮っています。何処から来られたのかわからないが、結構早くから活動しているのですね。 長男も小学校の時、ボーイの下のカブスカウトに入っていたけど、いつも10時ぐらいに集合していたように記憶している。 正門では、女性2人が守衛さんとなにやら話をしている。 中国か韓国から来られているようで、学会か何かで来たけど会場が本館ではなかったという雰囲気です。 「タクシーを呼んでください」と、日本の観光ガイド書を見ながら日本語で守衛さんに言っています。 OKとか片言の英語で答えていたけど、守衛さんもいろいろ大変です。 タクシーが停まって観光客が降りてきて時計台を写真に収めています。 観光都市京都市内の学校なので、観光ガイドに載り、観光スポットになってるのでしょう。 新島譲の同志社なんてもっと観光客を集めてるんだろうな。 
路上駐車をいけないので、話の腰を折って申し訳ないと思いながら、校内への乗り入れを伺った。 日曜日で車も少ないようで、「すぐ出られるんでしょう。 いいですよ、どうぞ」ということで、時計台前に車を入れ、時計台内にトイレを拝借しに入りました。 「三高記念資料室」という部屋が出来ており、時間つぶしに覗きました。 変遷が順序良く説明されており、学徒出陣の写真も飾られていました。 大勢の若者が出征していかれたのだなあ・・・全国で多くの若者達が行かれた。 私や息子達がその中にいなかったのは、歴史の偶然としか言えないな、なんて思いました。 三高初代校長で今の学校の校風の基礎を作ったと言われている折田先生像が飾られていました。
先生本人には何の関係もありませんが、もう学校の伝統ともいえる折田先生像の落書きの長い苦難の歴史をかいくぐった像の本物がこれかと思うと、妙に感激で・・・いや半分笑いがこみ上げてきました。 この像が校庭から保管室に移動されたここ数年、張りぼての折田先生像が入学試験前の時期になると登場し、新聞紙上をも賑わす話題になっています。 去年は「梅干食べてスッパマン像」で登場し、ちょうどこの時期それを見て「なんじゃこりゃ〜」と驚いたが、今年はいつもの場所になかった。 毎年1年持たずに朽ち果てる運命のようですが、今年は2ヶ月で既に不燃ごみ行きになってしまったのか? 今年は「ポコちゃん」(不二家のマスコット・ペコちゃんのボーイフレンド)というタイムリーな折田先生像が登場したと情報は仕入れていたのに、実物が既になく大変残念です。
時計台前に出ると、集合場所のクスノキ下に、数名の新入生が集まってきてくれています。 留学生なのだろう白人さんのペアもいます。 男の子が流暢に日本語をしゃべっています。 毎回参加しているようです。 そういえば、次男君の下にスウェーデンからの留学生が、帰るまでの半年間入部していましたっけ。 次男君が彼の担当になっていて、ミーティングなどで通訳まがいのことをしていました。 レーシングでの成績も大事だけど、こういうものって、人生にはもっと大きな意味があるように思います。 学校のクラブだから、生徒さんはみんなウェルカムで、そこに集まるメンバーによって、いろんなチームやクラブが出来上がる。 毎年別のチームができるのが、面白いところです。
「ヨット部試乗会」の看板に集まってくる生徒さんを見ていると、「カミヤさんですか?私カジです」。?、受付はあっちなんだけど、?と、ちょっと面食らっていると、「私、カジの息子です」。 「ああ、お父さんから聞いてるよ。おめでとう」。 彼は、私の中学1年からの友人の息子さんでした。 今でも毎年年明けに集まっている同級生メンバーです。
今年は、その日程が息子君の受験日と重なり、「何が出来るわけではないけど、家で迎えてやりたい」とお父さんはお休みでした。 「残念だけど応援してるし、吉報を待ってるぞ」みたいな連絡をしました。 後日、「受かった〜、第一志望や、カミヤ君とこの息子さんの後輩や、ホッとした〜」と連絡をもらい、すぐにそれを肴に夜中ファミレスでダベりました。 今年初めて参加した試乗会で会えるなんて、かなりラッキーです。
「カジのやつ、無口な息子とか言ってたけど、しっかりしてるやんか」。 わが子の本当の姿が見えないのは親ばかりなりです。 彼らを乗せて艇庫に向かいます。 京都の晴天を見ていると、はたして風が吹くのか?疑問でしたが、比叡山を越えて眼下に見えてきた琵琶湖には、しっかりブローが入っています。 白い帆がポツポツ走っています。 下宿生も多いからと、琵琶湖であることと、白いのがこれから乗るヨットであることを説明する。 しかし、いい天気で絶好のヨット日和です。 助手席に座った新入生は、神戸の長田高校からだそうです。 神戸学区の公立トップ校。 いろいろ高校の大学入試のことを聞かせてもらいました。 艇庫に着くと、私の担当はOBさんクルーザーで12時に沖に来ると言われました。 2F部室で説明を受ける新入生達を写真に撮り、時間を待ちます。
ハザマさん・ムラヤマさん・フジワラさんが来られました。 ハザマさんからクラヤマさんに監督が代わるとか。フジワラ技術コーチ兼新艇庫プロジェクト委員長が、クラブの今後を話し合われるのでしょう。 次男君の同回生や下の子達OBがやってきました。ヒロコさんから、NHKサイエンスゼロの話題が出ます。 前回は昆虫の話だったみたい。 確か見ながら夢の中に入ったな。 コオロギの感覚器からナカシマ君が研究してるゴキブリを連想してなんて・・・アツシ君も見てたそうです。 ヒロコさんはNHK教育TVのファンのようで、子供向け番組からサイエンス物まで幅広く見てるみたい。 私もかなりのNHKファンではありますが、サイエンスゼロもマナベカオリさんが出てたからだったり、語学番組なんてきれいなお姉さんばかり見てて、ちっとも身につかないし、まともなファンとはいえません。
最近小さなマイブームになってる作家の森見さんの話を出すと、アツシ君が「太陽の搭」を読んだそうです。 彼もかなりのお気に入りのようです。 相当の本好きと見たが如何? マロさんの携帯ワンクリック詐欺の話が面白い。 彼はなんでこんなに面白いのだろうか? ホシノ君の賢そうな独特の雰囲気に続いて、マロ君の普通の会話の独特の面白さには脱帽です。
時間になり、最初にクルーザーに乗る新入生と一緒に、インフレータブルで沖に向かいます。 カナヤキャプテンと私がキリさんのクルーザー担当で、みんなを順番に乗せます。 それぞれの自己紹介から、カナヤ君のメッセージが続きます。しゃべるのがとても上手です。 キリさんは、70歳を過ぎておられるのに、琵琶湖大橋のところからここまで1人でセーリングして来られ、ほんま元気です。 3時を回り艇庫に戻ってきたら、エリコさんが名古屋から来ていました。 連休なので、数日艇庫をねぐらにするのだろうか? マネージャーさんがたくさん来ていて、夕食のお鍋の用意をしていました。野菜・豆腐・お肉・・・1つだけキムチ鍋で、全部で9つも土鍋とカセットコンロが並んでいます。 30人弱の新入生で、ちょうどいい人数ですね。
ここに来ると、うら若き女子が気軽に声をかけてくれてありがたいです。 ただ、京女の寮が連休で閉まってるらしく、寮生がみんな実家に帰っていて、マネージャーさん獲得試乗会の方はお休みで、ちょっと、というか大きく残念でした。 駅までピストンで迎えに行ったげるのに。

2007/4/23
日曜日はドラゴンの今年の初戦でした。メンバーのモリタさんが沖縄出張、シンタニさんが風邪です。シンタニさんは、レースメンバーから母校ヨット部応援船長さんに変更になり、2人しか集まりません。そこで助っ人のヒライさんが入ってくれました。ヒライさんは、何度も全日本で優勝しているので、この日はトレーニングを受ける感じでした。
時々うちの船の整備に付き合ってくれていましたが、実際に船に乗ってくれるのは今まであまりなかったと思います。「ここ、ちょっと重過ぎるよ。こうしたら軽くなるよ」とか、ほんといろいろありがたいです。ヒライさんは東京の常勝大学ヨット部出身で、母校ヨット部大先輩の娘婿さん。気のいい方で、感じがとてもいいです。乗ってて楽しいです。オーナーの先輩が、肩が痛く病院通いしているらしく、「今日はリハビリや」という状態だったので、私は舵担当で、ヒライさんが全般の指示役。長年この船に乗ってるだけあって、指示が的確です。勉強になりました。
この日はあいにくの雨模様でしたが、風はまあまあありました。8艇参加で、面白いレースになりました。この日は、5位6位ぐらいと最終レースはビリでした。最終レースは、1上ビリ回航でしたが、クローズでオオノさんチームを抜いて、最終下ではその前のタワさんイサミさんチームにテールトゥーノーズまで迫りましたが、最後抑えられてオオノさんチームにもフィニッシュ直前で逆転されてしまいました。もう少し上位を走れればいいのですが、クローズのボートスピードがあと1歩です。ヘルムスの私の腕如何です。まあこの日も参加していた現役オリンピックセーラーでもなかなかトップは引けないハイレベルと言い訳しときましょう。いつも中位から下なので、今年はブレークせにゃあと思ってるんだけど・・・でも、練習日を取ろうとは思わないからなあ。
スタート前にスピンを上げることになりました。左右間違えないようにセッティングするのですが、いつもいまいち不安です。ちょうちんに開いてしまうこともあるし、他艇ですが、横向きに上がったスピンを見たこともあります。きれいに上がり、下ろしてレース海面に向かおうとしましたが、スピン後下りません。「おかしいぞ。どっか引っかかってるぞ」ヒライさんが前に行き、下ろそうとしましたが、「ハッチ開いてないよ」。スピンを収納するハッチの開け忘れです。そりゃ下りないわなあ。ここでうまく収納できたらよかったのですが、少しスピンが破れてしまいました。「今年の初めて乗るから、忘れてることもありますわなあ」と笑いながら一旦ハーバーバックです。スピンを交換しレース海面に着くと、ちょうどスタートで、ぎりぎり間に合いました。
雨模様でドラゴンクラスの平均年齢の高いことへの配慮か?3レース午後2時でレース終了です。片付けを終えてもまだ3時台だったので、ジュニアの方に回ってみることにしました。新しい子が2人今日から参加で、その様子を見ようと思ったのですが、奈良から別の新しい方が来られており、今年も順調に新人が入ってくれているようです。
お母さん方が、艇庫で大きなグレーシートを広げています。ゴムレスキューのカバーを新調しているところのようですが、一辺にハトメがついていなかったようです。「ありゃ〜失敗しちゃった」と購入された村上お母さんが嘆いていますが、「よくこんなものが出てくるなあ」という感じで、別のお母さんがハトメ作成工具とハトメを出してきます。かなづち・・・いろんな工具がすぐに出てきて、早速ハトメ製作開始です。ここには「私、こういうのに弱いの」なんていうぶりっ子なお母さんはいないようです。男性的な面でも頼もしいです。でもここに私がいるので、乙女の恥じらいを思い出されたのか?「ハトメを留める力仕事、やってくれます?」ってことで、私にお鉢が回ってきました。どうもうまく行かず1発目は今一な出来です。2つ目以降はコツがつかめて、ではなくコツを思い出したお母さんに教えてもらい、なかなかの出来です。こうなると、1発目の不出来が気になります。ゴニョゴニョもう一歩美しくしようとしましたが、時間切れになってしまいました。
5:30からミーティングということなので、それにお邪魔してから帰ることにしました。ブロンズクラスのミーティングで、先週姫路であった舵杯の話題が出ました。初レースだった國廣君が、第1レースの1上をトップ回航したそうで、お父さん方は大騒ぎだったらしいです。いきなり1番で回って「次どこに行くんだったっけ?どうしよう」と思ったか、「よっしゃ〜。来た〜」と思ったかは定かではありませんが、大いにレースを楽しめたのでしょう。いいね〜。よかったね〜。
6時過ぎに自宅に戻り、さあ市会議員の選挙です。7時までは投票できるはずと、投票はがきを読むと、8時まで投票できるようです。仲良くしていた小学校の同級生が出てるので、今回も彼に投票です。市会議員は、気楽に話せる知り合いと言える人が3人も立ってるので、誰に入れるか迷うところです。その後、船に乗るときのスニーカーが行方不明になってしまったので、それを買いに靴屋さんに行き、最後は散髪屋さんです。散髪屋さんに着いたときは、7時を過ぎてしまったので、もう看板になってしまっていました。「う〜ん、来週しかしゃあないなあ」。

2007/4/16
日曜日は、義理母の法事と、KGヨット部の試乗会でした。
兵庫ジュニアは、姫路の舵杯と海陽のレースにほとんどの子が参加するので、地元での練習はお休みのようです。舵杯は、賞品がいいから、どんな賞品を獲得したのでしょうか?大人でもうらやましいのが貰えるからなあ・・・
この日は小さい方の車に、姪の子達のオムツとミルクを満載です。次男は東京にいるのでお休み、長男は現地集合なので、家内と2人で阪神高速を走ります。この車は1000ccだと思うけど、ほんとよく走ります。少人数の時は小さなので十分です。軽自動車が売れるはずです。550ccでも、昔の車の1500ccぐらいの乗り心地なんじゃないでしょうか。
3才の姪の保育園での学芸会をビデオで鑑賞していたらお寺さんが来られました。家内の実家とは、もう古い付き合いの近所のお寺さんで、昔から月命日にも来られるので、近所付き合いの世間話の間で法要があるという感じです。この日も、法事の後にみんなで食べるのにご招待です。当初は、この日に義理母をお墓に納骨する予定でしたが、兄達のお墓を建立する横に先祖の墓を移動することになり、納骨は後日です。
みんなでの昼食を食べてからKGヨット部試乗会を手伝うために浜に行く予定でしたが、クルーザーのドライバーが私だけのようで、昼食を断り、浜に急ぎました。加古川バイパスから第2神明の料金所に入るところで電話が入りました。森田さんからで、「試乗会頼むで」というものでした。土曜日にウインチを落としたようで、試乗会でジェノア出したときにミスったのかもしれません。新入生が落としたのなら何もいえず、「参ったなあ」という顔の金野さんが目に浮かびます。
浜に着き、調達したみかん1箱を持ってディンギーヤードに向かうと、門のところに乾さんがいます。部員に2人来て貰って、エ号をバースからディンギー桟橋に移動させます。各校、試乗会のようで、桟橋は満員です。前には大阪のクルーザーがセールをセットしています。新入生にクルーザーセーリングを体験させるようです。後から、長井さん・花崎さん・河野さんがツインスターでやってきました。クルーザー2艇使うようです。みかんを半分河野さんに渡します。
KG高等部・啓明ヨット部の合同練習が、笠井君と川瀬君がコーチで出て行きます。岡さんなど女子部員もおり、FJとホッパー8艇ほどで頼もしいです。これだけ揃っていれば、どんどんうまくなっていくでしょう。来年からどんどん学部に上がってくるので、学部ヨット部も楽しみです。渋川さんから電話で「ドラゴン整備で行けんけど頼むで」。「へい了解」です。
花崎さんの話で、柴田OB会長が入院されたとのことを知りました。食事制限で文句言ってるぐらいだから、心配するほどのことではないらしいが、今年はクラブの70周年という年でもあり、一刻も早く退院してもらいたいものです。ごそごそ話していると定刻になり、新入生を連れて部員がやってきます。桟橋と練習海面をツインスター2往復、エルシノア5往復しました。
この日は60名集まったようで、いろんな子が入れ替わり立ち代わり乗ってきました。みんなにみかんを振る舞い適当にしゃべりながら、学生の話を聞きます。大阪や神戸の方角を差して説明する部員、高校生の練習を見ながら日頃の練習のことを話したり、部員は一生懸命です。クルーザーのことを訊いて来たり、ドッグハウス内を見物してみたり、同じ新入生の交流を図っていたり、こんな時に携帯チェックしてるヤツもいます。誰々に似てるとか・・・現代若者事情を見ているようで面白いです。
OP出身の新入生、小栗君はスナイプのスキッパーで新入生を乗せています。増川さんは桟橋担当なのかもしれません。桟橋で、新入生がスナイプやブルーサブ・クルーザーの乗り降りするのを助けているようです。最後、桟橋からバースに回航するとき乗ってもらいましたが、中学生の頃から思うと、当たり前ですが随分きれいに大人になっていました。
来週はドラゴンのレースで、再来週は京都ヨット部の試乗会に行こうかなと思っています。そういえば、JPN28田中さんがドラゴンの練習をしていました。全日本2連覇に向けてがんばってはります。

2007/4/9
日曜日は、久しぶりに浜に行きました。兵庫ジュニアオープンレース、ドラゴン整備、西宮フローティングボートショーとメニューは盛りだくさんでした。ドラゴンの整備でホームセンターに走ることも想定し、バイクで行動することにしました。バイクの風切る爽快さは気持ちいいけど、大分春らしく暖かくなってきたのに、まだ冬装束でないと寒いのがいただけません。案の定、バイクを降りると暑いです。
朝8時に芦屋海洋体育館に着くと、参加選手が次々到着するところでした。長堀さん、石原さん・・・横浜・静岡・広島・・・遠くからありがとうございます。ユカちゃんは大きくなり、長堀父さんは相変わらず楽しく、お母さんはチャーミングで朗らかです。お母さんとは久しぶりでした。数年前に長堀家に泊まって以来でしょうか。ドラゴン整備の10時が迫り、新西宮に移動です。

話は変わりますが、先週「本屋大賞2006」の発表がありました。2006年に出版された本の中で、本屋さんの店員さんが一番売りたい本No1を選考する賞です。「芥川賞」や「直木賞」など、作家などの重鎮が選ぶ賞ではなく、本のプロではあるが、作り手としては素人の店員さんの選考で選ばれます。審査員になりたい店員さんが登録し、一押しの本を上げ、登録された店員さんの投票で第一次選考されます。10冊程に絞られた中で再び投票され大賞が決まります。
本好きの私は、「博士の愛した数式」が大賞を取ってから注目しておりました。大賞作品にとどまらず、第一次選考に残る作品はみんな面白いです。いつもこの中から数冊は読んでいます。今年は、他の書評などで評判がいい「一瞬の風になれ」が選考されました。ちょうど読み終えた日、本屋大賞に決定し驚きでしたが、2番が次に読もうと思っていた「夜は短し、歩けよ乙女」で2重の驚きでした。

ということで、再び日曜日に戻ります。新西宮YH正面にバイクを停め、ドラゴンに向かって歩いていると、ボートショーのテントやボート・ヨットが見えてきました。華やかです。ドラゴンのオーニングをはずすと、新谷さんと森田さんが来られました。ジブファーラーが時々トラブルのでその対処をごちゃごちゃ考えていると、渋川さんがやってこられました。ファーラーは来週修繕することになり、ブームブロックを下げることと、ねじの増し締め、ウインチの分解掃除で作業終わりです。まだ11時半なので、ボートショーを見に行きます。ベネトウ・Xヨット・・・みんな魅力的です。トヨタのポーナムに対抗して出したヤンマーのボートは豪華でした。720馬力が2基ついています。燃料タンクが1000リッターだって・・・10時間連続走行可能だそうです。ということは、100リットル/hなんですね。驚きです。35ノット出るそうですが、1時間1万円以上で突っ走るのか・・・。
食事をして、再びボートショーの売店へ。新谷さんが、カッパの下を購入です。ヘリハンが9000円だって・・・安いです。去年のボートショーで上を10000円で買ったそうなので、この上下はかなりお安いです。19000円で上下揃うなんて、ないですね。その後、エ号で沖に出ます。
兵庫ジュニアのレース観戦です。朝一番から南の風が入っていたので、もう少し風を期待していたのですが、天気予報どうりMAX3m/sの1日のようです。最終レースの1上は、ユカちゃん・航輝君の順位で回っていきます。風は物足りないけど、選手も運営し見守る親も楽しそうです。
最終レースの上位艇フィニッシュとともにハーバーバック。芦屋に戻り閉会式です。レース委員長でもある新理事長の内田さん中心に、兵庫ジュニア主催レースの1つの形ができ上がっている感じがします。内田さんの奥さんが成績表作成用のPC持って電車で往復していたそうです。内田さん、トップとして初めてのレース、ご苦労様でした。

2007/4/2
日曜日は、父の四十九日の法事です。これで毎週の法事が一段落します。10時からお寺さんが来られるのですが、10:45から新しいヨットの番組がサンTVで始まり、兵庫ジュニアが出るのでなんとしても見たいです。そこでビデオをセットすることにしました。母親の家のビデオで、10時過ぎから録画し始めたのはいいのですが、なんとNHKが録画されており、がっくりでした。もう当たり前に付いている裏番組を録画できる優れもの機能が逆効果になってしまいました。取り扱い説明書がないので、一度チェックすればよかったのですが、ああ失敗です。
でも法事が10:50ほどに終わり、その後は見る事ができました。小巻さんが、内田さんが、田中さんが、丸山さんが・・・写っています。次男君が、「えっ、これ何?芦屋?」って、甥・姪とトランプをしながら喜んでいます。
11時に番組が終わり、母とうちの家族・弟家族みんなで食事に行きました。阪大のモノレールで2つ向こうの中央環状線沿いの「かごの屋」さんです。甥が小学生、姪が保育園なので、会席料理などではなく、普通の食事をすることにして予約を入れていました。ふすまが閉まる座敷席があり、うちの一家だけだったので、面白おかしく過ごすことができました。
姪が保育園の「おはげみひょう」を大事に持っており、みんなに披露してくれます。彼女の保育園は、私も弟も通った西宮の私立で、当時も同じ「おはげみひょう」がありました。「懐かし〜」。家でやってくる宿題みたいなものです。できたらお母さんがシールを貼ってくれます。冷水まさつのおはげみひょうがあり、水で絞ったタオルで毎朝身体をゴシゴシしないといけないのですが、冬、裸になるのが嫌で逃げ回っていた記憶があります。姪の持っていたのは、食事のおはげみひょうで、きちんと1人で残さず食べられたから、
全然食べられなかったまで、10段階ぐらいの評価に別れ、文字とともにウサギさんや熊さんの絵で、どういう食べ方かわかるようになっています。彼女が一番多かったのは、「お母さんに食べさせてもらった」で、「こぼした」や「残した」にも多くシールが貼ってあります。次男が、「駄目じゃん」と駄目だしをすると、シールの貼ってないページを出し、「お皿を舐めなかった」とか「食事の途中で寝なかった」を自慢しています。
「私の嫌いな果物はなんでしょう?」という問題を出し、長男が「イチゴ」と答えると「正解」なんだそうです。一同「え〜」。イチゴの嫌いな女の子が世の中にいることが驚きでした。さらに「グレープフルーツはすっぱいから嫌い」で、「みかんもすっぱいから嫌い」さらに「バナナも嫌い」だそうで、珍しいヤツです。
1時に解散しますが、弟家族は再び母親の家に戻り、次男は運転免許の更新、長男は明日広島出張なんだそうですが、一旦東京の本社に戻るようで、新大阪まで送ることになりました。長男は昨年東京に就職になり車を売りましたが、向こうで車を買うそうです。学生時代はスポーツカーに乗っていましたが、「家族を持つとそういう車に乗れないよね。ゴルフでいろんな人と交流を深めないといけないし。スキーに行くのに、スタッドレスタイヤだけでOKかなあ?やっぱ4WDもいる?」って訊いてきます。まだ結婚もしてないのに、この子が生まれて1才から毎年スキーに行っていたので、同じような家族を作ろうとしているのかもな?と私達夫婦の子育てが肯定されたようで、ちょっと嬉しくなりました。話を聞いていると、何か生き生きと暮らしている様子が伝わってきて、その面でも嬉しくなります。子供がイキイキと自分のことをしゃべっているのを聞くのは、親として一番のプレゼントです。
新大阪から戻ると、そのままバイクに乗り換えて東灘の司法書士さんのところに行きます。相続の手続を進めないといけないけど、登記変更などはどうせ司法書士さんにお願いしないといけないので、一切合切お願いしたら費用はどれぐらいかかるのか相談です。父の誕生からの戸籍謄本を全部取り寄せ、それを持って法務局で登記変更し、銀行で口座名義変更し・・・と結構大変です。どうせ不動産登記で司法書士さんへの手数料や登記印紙の費用が発生し、いろんな手間を考えると総額何ぼで丸投げしてしまう方が結局早く楽なのかもしれません。ううむ、どうするかなあ?

2007/3/26
我が家にもとうとう仏壇がやってきました。午前中に浜屋さんのトラックが来て、担当の方がセッティングしてくれました。1週間前にその場所を空けるべく、親父の使っていた箪笥を移動させました。移動先は、我が家の倉庫になってしまっている元私の勉強部屋。「いつか使うかも?」と置いておいたものが結局そのままで、この際ということで、大分捨てました。しかし、一気には捨てられず、玄関前に山になっています。相応のごみの日に出していますが、まだまだ残っています。
仏壇屋さんでは、大小さまざまな大きさのものが並び、材質も様々で迷いましたが、1つだけ我が家にやってくると、比べるものがないので、いい感じで馴染んでいます。親父の位牌も揃い、来週の四十九日を待つばかりです。
3時の法事までしばらく時間が空くので、芦屋YHまでりんごの差し入れを持って行きました。ちょうど午後からの出艇前です。ちょうどナショナルチーム最終選考会の最終日で、それに出場している3人がお休みで、ちょっとゆっくりした空気が流れていました。でもやはりその話題が出て、というか、現地から連絡がライブで入ってきます。この日江ノ島は、強風大波のようで、早々にレースが中止になり、ナショナルチームが決定したようです。田中君が2位でとうとうワールドチームに入り、村上君と吉保さんもアセアンチームに選ばれそうです。何年も連続でNTメンバーを出す兵庫ジュニアの現役さん達はすごいです。
今回、村上君が何処かに行けるようになったらいいなと思ってました。お父さんもお母さんも、レース結果にすごく気合が入っている感じではなく、村上君も飄々として笑顔が似合います。ミーティングでも沖で風待ちをしている時でも、村上君の周りには笑いがあります。こういう子がいると、しんどい時でも全体の雰囲気も変わり、貴重な存在です。村上君はOP最後の学年になったので、今回は一番応援していました。お母さん方としゃべっていた時、現地のお父さんからお母さんに「アセアンに行けるかも?」が入り、吉報が早く届くといいなと思いました。
吉保さんは、まだ新中1で、最終選考会に行けるだけでもすごいことですが、いきなりナショナルチーム入りするかもしれません。5年生からOPを始めたので、急速な上達です。彼女は英語が堪能なので、ヨットで世界を広げて欲しいし、一緒に行く子達はより楽しめるような気がします。
ハーバーから家に戻ると、お寺さんが来られる直前でした。ちょっとあせりながら戻りましたが、ぎりぎり間に合ったセーフ、という感じです。法事の途中で、保育園生の弟の娘がいつものような落ち着きがありません。この日は、奥さんの実家のお父さんの四十九日でしたから、朝からじっとしていなければならない時間が続いたからでしょう。でもこの年の子としては落ち着いてじっとしていられると思います。立派なものです。
法事が終わり、黒ひげ危機一髪ゲームです。姪と弟の嫁さんが2回当たって私と弟はゼロ、私はゼロのまま甥と交代したので、前から続いている連勝記録が続きました。なんかついています。ゲームの途中で、「たー君は?」と姪。次男がお気に入りで、一緒にゲームをしたいようです。あいにく琵琶湖の同志社ウィークに行っています。運営なのか選手なのか?朝一番から行きました。「今日はヨットに行ってるよ」と答えると、弟が漁船のような船に乗って友が島に行ったことを話し出しました。波が大きかったようです。今年は弟家族を連れて船に乗ろうかな?なんて考えました。

2007/3/19
日曜日は、またまた盛りだくさんな日でした。お彼岸に入り、まずは朝一番に家内の実家のお墓参りです。7時に家内と家を出て、最後になるかもしれないお墓参りです。家内は姉との2人姉妹で、母の死によって義理姉夫婦が墓守をすることになりますが、姉夫婦のお墓を購入し、その隣に先祖の墓を引っ越そうかと考えています。
家に戻り、すぐに浜に向かいました。KGヨット部のOB総会が10時からです。ちょうど始まった時に艇庫に着き、柴田会長の開会の話の途中で到着でした。いつものことですが、時間ぴっちりに始まる会合は、気持ちがいいです。
その後先週購入したコクピットに置くテーブルを船に持って行き合わせてみました。いい感じでピッタリです。中村さん・藤井さん・渋川さん・原さんが食べている関西ヨットクラブのテーブルに行き、カレーで昼食です。金曜日の夜、久しぶりにカレーが夕食で「やっぱ、カレーはうまいなあ」という感じだったので、これで3日連続カレーを食べています。
午後はドラゴンの整備の日でしたが、父の法事があるので、失礼させてもらいました。家に戻り、お寺さんが来られる前準備をしていると、弟一家がやってきました。小学生の長男君は風邪気味でおとなしくしていましたが、保育園の妹は元気いっぱいです。法事の後、仏壇を入れる場所を確保するため、家具を大移動させましたが、この子がマスクをして手伝ってくれて、楽しい掃除でした。私を気に入ってくれて、たとえ保育園生でも、女の子にモテルのは、気持ちのいいものです。
日曜日の最後は、映画です。これは絶対はずせない映画「バッテリー」を観にいきました。いつも行く市内の映画館ではなくて、隣の市の初めて行く映画館に足をのばしました。最近は大型のシネコンが大流行ですが、ここは2つのスクリーンを持つ小型の映画館です。チケットを買うと次に上映される映画などのパンフレットをたくさん渡されました。そして番号の振ってある整理券も一緒に。上映10分前になると、お姉さんが肉声で入館を呼びかけます。「1番の方」と案内しています。整理券順に入館し、座席は自由席になっているようです。私は、ほぼ10分前に買ったので一番最後なのですが、整理番号は13番です。家族連れとかがいましたが、それでも全員で30人もいない感じです。こじんまりした映画館ですが、座席は最新式で、前との間隔も広く、いい感じです。昔、市内にあった映画館のアットホームな雰囲気があり、かなり気に入りました。
「バッテリー」は、あさのあつこ原作の中学野球の青春物ですが、原作が面白く、5〜6巻出ていると思いますが、みんな読んでいます。原作のどの部分を映画化されているのだろうと、かなり期待して観ましたが、期待に違わず、原作の雰囲気がそのままでいい映画でした。3月にして私の今年のベスト映画になるかもしれません。最近は、大ヒットした原作を素直に映画化されることが増え、文字と映像で楽しめます。山田洋二監督のように、原作と離れた演出をする方が減ったように思います。2つ3つの原作を1つの映画にしたり、大監督なるが故の自分色を出されて、がっかりすることも少なくなりました。
天才的な才能を持つピッチャーの巧は、性格が今一です。純粋で無口なるが故に誤解を与えてしまいます。それを大らかで前向きな性格のキャッチャーうまくサポートします。兄ちゃんが大好きな病気がちな弟や、元高校野球監督の爺ちゃんが脇を固め、素敵な原作を、原作に沿った素直な配役でいい感じに出来上がっていました。
映画が終わっても、誰も席を立つ人がいなく、お客さんの二重丸の感想が伝わってきます。映画の余韻に浸ったまま、眠りにつくことが出来た幸せな日でした。

2007/3/12
木曜日、仕事を終え家に帰ると、長男の靴が玄関にあり、仕事のカバンが置いてありました。週末に、友人の結婚式の司会をすると言っていたので帰ってくるとは思っていましたが、木曜の夜に帰ってくるとは早かった。こういうのが好きな性格とは言え、会社を休んでまでとは、気合が入っています。
金曜の夜、家に帰り、新聞を読みながら食事をしていると、長男から電話が入りました。「お父さん、10:20分にJR伊丹に着くから迎えに来てくれる?」というもので、すぐに迎えに出ました。店に回って荷物を置いたので、駅に着くと長男は待っていました。土曜の夜の結婚式の打ち合わせだったようです。学部の同級生で、仲間内で出来たカップルの結婚式で司会を頼まれたそうです。病気をして有給を使い果たし、新郎の田舎である島根では結婚式を挙げず、新婦の実家があり、大学も大阪なので、この地で披露宴をするそうです。結婚式をせずに、友達を100人以上呼んで披露宴だけをするそうです。新郎の郷里の友達が島根から出てきて、いろんな面で大阪で披露宴をするのがいいそうです。新地の飲み屋を1晩借り切るそうで、最近はこういう結婚式が増えているのでしょうか?1人5000円の会費で、1晩60万円で貸し切ったそうです。
秋田から2ケースも荷物が届いている事を告げると、余興やゲームのネタらしいです。新郎は実家に帰らなかったけど、長男と友人で新郎の実家にサプライズで行き、写真やエピソードを親御さんから仕入れたそうです。家に戻り、風呂に入る前、食卓にPCを出して、ごそごそやり始めます。「お父さん、見てみる?」と、パワーポイントで作った15分ぐらいの披露宴で使う作品を見せてもらいました。「・・さん・・さん、結婚おめでとう」という文字が、浮き上がってきます。小田和正のBGMに乗り、新郎が産湯に使っている写真がコメント付きで現れます。成長の記録のように大学入学までの奇跡が、写真とコメントで綴られています。
続いて新婦の方も。小田和正のこの音楽は、長男が生まれる前の私の世代の音楽のような気がしますが、とてもマッチしています。それから研究室の姿や、それどれのクラブでの写真、それから仲間内の写真。ここで長男君も登場です。BGMが消え、「いつしか惹かれあう2人」みたいなタイトルが浮かび上がります。仲間内の写真、新婦の卒業旅行、新郎の卒業旅行。この旅行がエジプトで、長男もしっかり写っていました。
「そうか、あの時のエジプト旅行は学部の仲間内の卒業旅行だったんだ」とわかりました。確かこの旅行も長男が幹事をしていたような・・・まあ、こういうの好きだからな。最後に、今日の写真と写真が入る枠だけあり、コメントが付いたページが現れ、おしまいです。当日の写真をここに入れ、完成なんでしょう。
風呂から出てきた長男に、エクセレンスな出来やなあ。15分間、みんなこれに釘付けやなあ。新郎新婦と一時期しか交流のなかった友人も、それぞれの今までを知り、こういうのがあるのとないのとでは大違いな感じがします。先週は、次男が長男に頼まれて、披露宴会場の前に置くウェルカムボードを作っていました。これまたきれいなデザインの立派な作品で、子供達のこういう姿が見られる親という職業はなかなかいいものです。長男は、自分の結婚式でも自分で自分達の紹介作品を作ってしまいそうです。まあ、それも面白いですね。

土曜日は、お手伝いしている次男の出身大学ヨット部の追い出しコンパでした。いつもの京都駅の隣にあるアサヒビールビアレストランです。次男の1学年下も卒業を迎えました。5人の卒業生の内、2人がもう1年学部をするのですが、クラブの最終学年を悔いなく過ごすために、1年休学しました。本来学校のあるウィークデーも練習し、団体戦出場を目指しましたが残念でした。でも、レベルの高い近畿北陸地区の個人戦をこの2人が組んだ艇が制し、やり切ったという気持ちで卒業するのではないだろうか。外部コーチの挨拶として、みんなのエピソードを紹介する時間を持て、楽しいひと時でした。最後は、いつものエールです。昨年はレストラン内でしたのですが、今年は外です。小雨が降っていましたが、京都駅の前で円陣を組んで、応援歌、そして定番の琵琶湖就航の歌、最後に卒業生にエールを送りおしまいです。何度経験してもいいものです。終わりが決まっており、若さがあふれる4年間を濃厚に過ごした仲間達との時間。学生スポーツはいいものです。
現役学生は、卒業生と2次会3次会と繰り出すようです。その費用は全て卒業生持ちと決まっているようで、秋に引退後のバイトで貯めた資金をここにつぎ込むそうです。次男が卒業生だった「昨年は豪華でしたよ」なんて聞いたので、「誰が首謀者?」と問うと、「そりゃ神谷さんですよ」と、長男同様こういうのが好きなようです。帰りの電車で毎年卒業生が製作するフルセイルという冊子を読んでいました。今だから言える入部の時のエピソードから、OB諸氏や仲間への感謝の気持ち、後輩に残す技術的なことまで、盛りだくさんです。

日曜日は久しぶりに浜に行こうと思って、いつもの時間に起きました。土曜日寝る時には帰っていなかった長男が帰っているようでした。家内に訊くと、朝方帰ってきたようで、始発まで騒いでいたのかもしれません。披露宴の首尾は上々だったのでしょうか?まあ、場を盛り上げるのが得意な子なので、楽しい披露宴になったのは確実ですが。
小さい方の車に乗り浜を目指しました。ナンバープレートが白なので、1000ccぐらいの排気量はあるんだろうが、よく走ります。最近の性能アップを思うと、少人数で移動するだけなら大きな車はいらないなと思います。浜は、吹いていました。10m/sは越えているようです。KGが船を並べていました。エ号に行き、コクピットの寸法を測ります。ここに置くテーブルが欲しいので、ちょっと探してみようかと思うからです。
店のあるマンションの総会が10時からあるので、すぐに車に戻ります。KGのマネ日記を読むと、今年KGに入学した小栗君と増川さんが練習に参加しているようなので、声をかけに行こうかとも思いましたが、あまり時間がなくやめときました。横田君や西尾君が練習にやってきます。最近、高等部ヨット部が元気なのは、OBとして嬉しい限りです。中村さんから始まった伊丹・兵庫ジュニアの発展もありますが、中学の土曜ヨット講座をOB会が請け負っているのも大きいと思います。

マンションの総会は、一昨年の理事さんから独断専行が目立ち、揉め事が増えました。今年の理事さんが正常に戻そうと一生懸命やってくれています。昨年の総会では、ビデオを設置し、理事会が弁護士を同席させるなどひどい雰囲気で、その費用のこともあり、えらい雰囲気になりましたが、大分戻りました。それでも、例年なら1時間ぐらいの総会が、3時間経っても終わりません。次期は理事になるのですが、法事の時間が迫り仕方なく退室しました。
家に戻ると弟のとこの車があります。弟は勉強会で欠席ですが、奥さんと子供達が来ています。今度手に入れた「黒ひげ危機」を持って、子供達と遊びます。プラスチックの剣を樽に刺すゲームですが、1本刺すごとに樽が動いたり、声が出たり、松崎茂が黒ひげの歌を歌うのが面白いです。下の妹はまだ保育園ですが、黒ヒゲが飛び出るのが怖いらしく、お兄ちゃんやお母さんから、「大丈夫、大丈夫」と言われています。口の方はとても達者なのに意外です。
お寺さんが来られ、法事が始まります。畳で使える低い籐椅子を10脚揃えましたが、これが楽で、正座の苦痛がなくありがたい。来月の四十九日法要と仏壇の開眼法要の時間が決まり、その後家族で食事をして法事の仕上げです。その前に仏壇を搬入し、位牌を作らないと。これが終わると、百か日まで日を開け、お墓に親父を納めて一連のものが終わります。
家内の実家も義理母が亡くなり、親というものがいなくなりました。母が守ってきた先祖のお墓も、姉の旦那が守ることになります。姉も苗字が変わったので、姉達の墓を別に購入し、実家のお墓も横に移動させることになりました。新しいお墓が出来るまで、義理母の納骨は延期になりましたが、雰囲気のあった義理父の育った部落のお墓を訪れるのは、今度のお彼岸でお終いです。ニュースによると、今年は桜の開花が早いそうで、私の家族を取り巻く環境が大きく変わった冬も、そろそろ終わろうとしています。

2007/3/5
日曜日は、午後2時から父の法事です。昨秋に義理母が入院して、父が入院し、義理母、そして父、その間に弟の義理父の死まであり、ここ半年の日記は、この関係の話題ばかりのような気がします。まあ長い人生、こういう時期もあるでしょうね。
ドラゴンの整備の日でしたが、毎週父の法事が続くので、4月中旬まではこちらを優先させてもらっています。午前中に仏壇屋さんが、仏壇置き場チェックと、父の位牌を作るために法名を見に来ます。それまでに帰ってくる為に、朝8時に家内・長男・母と一緒にお墓を見に行きます。
仏さんもいないのに、墓地を買ってもう30年。墓石を建ててからも随分経っています。家から1時間弱の距離にありますが、子供が小さな頃は、アブトムシ取りなどに年数度行っていたが、最近は年1度ぐらい家族の誰かが見に行って、その報告を聞くだけでした。
久しぶりの墓地は、墓石が所狭しと建っています。最初買った時は、段々畑の更地が幾重にも重なっているだけだったのに、少しずつ増えて、墓石の建っていない聖地はごく少数になっています。墓石をいいのにしたので、まだサラ同様にきれいです。管理をしてもらっているから、雑草も生えていない。これだけ時を経て、墓地業者の良し悪しが見えてくるようです。かなり満足です。
家に戻り、程なくやってきた仏壇屋さんと打ち合わせして昼食。やがてにぎやかに弟家族がやってきます。部屋に飾る引き伸ばした父の写真が入った額を飾り、仏壇を置く場所にある父の使っていた箪笥の整理です。
旅行に使っていた身の回り品は捨てられないなあ・・・贈総理大臣なんて書いてある懐中時計やなんやかんや出てきます。戦争に行ったからのもらったもののようです。父がもう整理していたのか、結局、ほとんど捨てる物はなく、そのまま別の部屋に移動になっちゃいそうです。
お寺さんが来られ法事が終わり、弟夫婦としばし歓談。自宅に戻ると、長男が仕事に戻るようです。次男もしばらく愛知県に行くので、一緒に駅まで送ろうと、次男の部屋に行くと、すばらしいデザインのプレートが部屋にあります。「これ作ったん?」「うん」「うわぁ、すごく上手じゃない」。結婚式の披露宴の入り口に飾るプレートのようです。結んだ新郎新婦の手が中央に、周りには花がデザインされ、造花が針金で囲んでいます。
「お兄ちゃんに頼まれてん」。金曜日遅く家に帰ると、車がありませんでした。次男は風呂に入っているので、長男が帰って来ているのかと思いました。しばらくして長男が帰ってきて、大学の時の友達の結婚式の司会をするそうで、その打ち合わせに行っていたとのこと。長男は弁が立つのでうってつけの仕事です。きっと楽しい披露宴になるでしょう。そこで使うために、長男が次男に頼んだようです。
朝、お墓に行く時に、行かないと言って自宅に残ったのは、この作品を作っていたからなんでしょう。小さな時から、とてもいい絵を描いて、レゴでも独創的な巨大作品を作っていました。建築デザインも私のような素人から見ると、プロ顔負けの出来栄えに驚かされました。子供は、自分で才能を伸ばしていくものだなあとつくづく感じます。
いいなあと思って控えていた言葉があります。
『子どもを4人育ててみて、わかったこと、それは、子どもをすくすくと成長させるコツは、子どもの可能性の芽を摘まないこと。つまりね、多くの場合、お母さん、お父さんが、子どもには、生まれたときから、何もしなくても備わっている、良いところに気がついていないのよ。そして、無意識に、自分の価値観を押し付けて、その芽を摘んでしまっている可能性がある。だから、その芽を摘まないだけでも、子どもは、すくすくと育つのよ私が感じた経験から、そんなお手伝いが、できれば、うれしいわ。子育てはテクニックではなく、信頼関係だと』

母校ヨット部のウェブサイトを最近よく訪問するようになった。今年に入って、ウェブ担当マネージャーさんから連絡をもらった。元々、OBページを担当していた私から、現役ウェブサイトを立ち上げるように要請した経緯もある。
「検索サイトでなかなか上位に検索されないのですが、いいアイデアありますか?今度マネージャーブログを始めました」という内容だったと思う。「更新を活発にして、他からのリンクが増えると、検索上位に上がるようだよ」と具体的な方法も含めて回答したと思う。「マネージャーブログを始めたのはすばらしい。クラブの公式ページを意識せず、好きなように感じるように何でも書いていったら、読者が増えると思う。
一番読むのは、部員と親、次にOB。下宿生の親を経験した私から言えば、日頃の生活の一端がわかるのは、とてもうれしいことです」と褒めた。
マネージャーブログは、いろんなマネージャーさんが入れ替わり立ち代り登場して書いてくれている。かつてそこで過ごした時代と重ね合わせ、現役選手の日頃のがんばりを想像して楽しめる。この調子なら、要望で出しておいた「情報はスピードが命」もやってくれそうです。レースが始まると、その日の成績をどんどんアップしてくれるんじゃないかなあ。まあ、現役みんなが、特にマネージャーさんみんなが、そういう気持ちになったから、私の意見も参考にしようと思って訊いてきたのだろうし、私の意見などなくても、こうなっていたように思う。ほんま、がんばってほしいわ。成績表に残り、表に出るのは選手ではあるけれども、実は大きな力を選手に与えているマネージャーの力を実感してほしいと思う。

2007/2/26
日曜日は、父の二・七日でした。昨年末に亡くなった義理母の四十九日が終わったと思ったら、再び毎週日曜日は法事の生活です。3時にお寺さんが自宅に来られるので、それまでのいろんなことをしなければなりません。
まず学部ヨット部艇庫に、弔電のお礼にりんごを1箱差し入れです。ちょっと遅れたかなあと思いながら9時頃艇庫に着くと、部員はスヤスヤ夢の中でした。「ありゃ、今日は練習休みかなあ?」と思ってると、うろうろしていた牛尾キャプテンがやってきたので、お礼と差し入れを渡しておきました。10時に起床って言ったたかな?この日はゆっくりのようです。
次に芦屋のジュニアの方に回りました。まだハーバーの扉が開いていません。木島さんや鄭さんが車で到着。木島さんに先日のお礼を言ってると、「鄭さんの息子さんがKG中に合格したよ」とのこと。おお〜、またまたヨット部の強力な戦力です。鄭さんに聞くと、清風も受かったけどKGにしたそうです。それにしても、確か6年生になって中学受験の塾に通い始めたのに、KGに合格するなんてすごいです。本人が賢いのは当然ですが、通ってた小学校のお勉強レベルも相当高かったのでしょう。私なんて、3年間家庭教師についてもらってやっとこだったのに。

10時を少し回ったぐらいに家に戻り、自治会役員さん回りです。葬儀でお世話になったので、家内と2人トコトコご近所回りです。皆さん在宅されていて助かりました。
次に、母親を連れて仏壇屋さんに向かいます。お寺さんも市内で、仏壇屋さんも近所の方が何かと便利だと思い、私のいる店の近所にある浜屋さんに行きました。私は数日前に1時間ほど聞いて来たのでいいのですが、こういうものはメインになる家内や母親の意見が優先です。うちの家で初めての仏さんなので、仏壇のことなど何も知りませんでした。大体宗派も今回の件があるまで、きちんと知らなかったぐらいです。家内のとこは真言宗で、うちは浄土宗。父が残り数ヶ月と宣告されてから25年、お墓も購入してるし、自分で既に戒名も付けてもらっていました。お墓は、少しずつ墓石を建てたり巻いたりして、それなりのお墓になってから主のないまま随分経ちます。墓を建立した時は、お寺さんを呼んで、それなりの儀式をしましたが、最近はご無沙汰です。子供が小さな時は、カブトムシを採りに、遊びメインでお墓の草引きに行ったりしていましたが、家族の誰かが行った時の報告を聞いていただけでした。昨年次男が行ってくれたのが最後かな?これからは、家内の実家のお墓同様、年数回は行くことになるでしょう。

仏壇は、キンキラの浄土真宗の仏壇からオーソドックスなシックなものまで、さらにフロア張りのマンションに合わせた家具調仏壇、家具の上に置くコンパクトなものまであります。数万円から数百万円まで。母親は、父親がリビングの家具の上に作っていた簡易祭壇のようなものをどかして、そこに仏壇を置けばいいと言います。父親の両親の写真などを飾って、チンするものとか線香立てとかを前に置き、周りに海外旅行で買ってきた物を置いています。父親は毎日チンをして、孫達にも先祖のことを教えようとしていたようです。小さな頃のうちの子は、チンして乗っかってるいろんなものを手に持ち遊んでいただけですが、今思えばこういうのも大切なことだなあと思います。
「でもなあ、本物の仏さんになった親父の居場所だし、やっぱりちゃんと床からある仏壇にしようよ」と母親に話します。さて、どういうのにしようか?家具調や色合いの明るすぎるものがまず脱落、黒檀・紫檀の使う量と細工で金額が違うようです。母親の希望で紫檀の色合いに決定。仏壇は再々買い替えるようなものではないので、経年での持ちなどを訊きます。全部紫檀では仏壇は作れないそうで、柔らかい木に7mm厚ぐらいの紫檀を張ったもの、1mm厚以下の紫檀を張ったもの、紫檀柄をプリントしたものがあります。どれでも50年は大丈夫だそうです。30年ぐらいして仏壇屋さんに修理に出せば、元の仏壇の半分くらいの費用はかかるそうですが、新品同様にきれいになるようです。持ちや修理が一緒なら、見た目ほとんど変わらないプリントでいいんじゃない?ということで、それの適当な大きさのものにしました。よそ様の仏壇を見て、この材質は?なんて考えたこともないし。それでも数十万し、さらに仏壇内に入れる一式で15万もプラスになります。
位牌は「先祖代々」のものと、父個人のものと2つ作らないといけないそうです。先祖の方は少し大きく、個人のはそれより小さめに作るのだそうです。個人のを作る時、中央に父親だけのを作り、母親が加わった時は、別の母親だけの位牌を作るか、性根抜きして2人一緒のを新たに作ってもいいし、最初から父親を右に寄せておいて、母が仏さんになった時、そこに入れてもいいそうです。母親は、最初から自分の入る場所が決まっている方がいいそうで、最後のにしました。まあ大体のことを聞いて帰るつもりでしたが、「もう注文しちゃえばいいんじゃないの」という家内の意見で、購入してしまいました。こんな簡単に買っちゃっていいのかなあとも思いますが、持ち帰っても同じことだとも言え、これでいいかな。母親は、次の自分の居場所が確保できたことを喜んでいます。
家に帰り、法事の部屋を片付けます。元父親の部屋です。最大の難問は正座です。年末から続いた法事での正座を経験し、毎回しびれて感覚がなくなるこれを続けていれば、足がおかしくなりそうです。そこで高さ30cmの品のいい籐椅子を見つけ購入しました。今回は試しに4脚用意しましたがなかなかいいようで、追加で10脚までにしておくつもりです。母親には正座させたくないし、弟のとこのチビさん2人は、正座でじっとしてるのは無理。この4人分です。
やがて弟の家族がやってきました。弟のとこも奥さんの父親がうちの父親の1週間前に亡くなったから、これから毎週2つの法事を掛け持ちです。聞くと、向こうは家の裏のお寺さんなので、朝7時半に来られるそうです。弟家族はご苦労さんです。下の女の子がまだ保育園に行っており、お茶目でみんなを笑わせてくれる。お葬式の時に引き続き、私と問題の出し合いで遊んでもらった。
お寺さんが来られて、家での初めての法事。斜め前の家と、隣の家のお寺さんと同じ方なので、お寺さんも迷わず、「この辺よう来てますわ」と慣れたものです。うちのお墓の場所を言うと、大きな霊園墓地なので何度も行った事があるようです。来週の時間を決め、仏壇屋さんで聞いた「木魚は用意しておいた方がいいでしょうか?」を質問すると、この日使った携帯の木魚を取り出され、「用意しておいてもらった方がいいです。これは携帯用で小さいので、この1.5倍ぐらいあれば」。玄関でヘルメットを被りバイクで帰っていかれました。車で来られたら、うちの車を出して駐車場を空けなあかんなあと思っていたのですが、日曜日は法事で忙しいから、ほぼ近隣が多いご商売、バイクが小回り利いていいよね。見送ってすぐに木魚を買いに行きました。何とか初の自宅法要もクリアしました。あと5回続き、最後は四十九日の打ち上げ法要。それに続いて義理母のお墓への骨収め。さらに父の骨収めと行事は続きます。

2007/2/21
13日が終わり、寝床についていると電話が鳴りました。「何か、やな予感です」。警察と病院でなければいいが・・・いつも夜中の電話には、この心境で受話器を取ります。「・・病院ですけど」。あっ、ついに・・・、親父が入院している病院からです。「お父様の様態が急変しまして・・・通常の処置をしているときに、スーッと呼吸が止まりました」「すぐそちらに向かいます」
時計を見ると、0時を少し回っています。家内の部屋に行くと、暗い中、電話で起きたのか、布団の中で座っています。「親父の呼吸が止まったって・・・」「えっ」「お袋を起こさなきゃ」。次男の部屋をノックして、「爺ちゃんの呼吸が止まったって・・・」。すぐ隣の両親の家に行き、お袋を起こす。車を回して、4人で病院に急ぎます。次男が助手席で、私の弟と長男に電話をしています。
病室に着くと、親父はまるで寝ているようでした。看護婦さんから、「スーッと呼吸が止まりました。苦しむことも何もありませんでした。通常の処置中でした。点滴などはもう抜いてあります。まだ温かいですよ」。看護婦さんが行かれてから、家内が、「え〜そんな。あまりにあっけないねえ。もう少し前に連絡くれたら・・・」と泣きながら御爺ちゃんをさすっています。お婆ちゃんは、どうしていいのかわからないような感じ。次男は、爺ちゃんの顔を覗き込み、温かみを手で確かめています。
弟は、次男からの電話の前に、病院から電話を受けたらしく、車でこっちに向かっています。「葬儀屋さんに、電話しようか」。多分今回の入院は・・・と思って準備していた葬儀一式のファイルを家内がバッグから取り出し、2人で集会室に移動し、電話で連絡します。私の中学からの同級生がやってる葬儀屋さんです。奥さんは、家内のゼミと一緒だった子だし。お通夜・葬儀は、第一希望の場所で日程が取れました。すぐに病院に車を回す準備をしてくれるそうです。
お袋が様子を見にやってきます。「どうしようねえ」「大丈夫、全部僕らに任せたらいいから。僕が喪主でいいね。2人の息子に2人の嫁、孫も4人いて、うち2人はもう大人。心配せずに任せときな」
病室を覗くと、次男が爺ちゃんの頭をさすりながら涙を流していました。見てちゃかわいそうかなと思い、一旦集会室に戻ります。しばらく間をおいて、「さあ、病室を片付けよう」。看護婦さんも3人来られ、あっという間に片付いてしまいました。車に運んでも、最後はこんなに少なかったのか・・・と思うほど、あっさり車に収まります。
しばらくすると、弟の家族がやってきました。ちょうど1週間前、奥さんのお父さんを亡くしたのに続き、再びの不幸です。弟の家族が一番かわいそうです。担当の院長先生がやってきて、説明を受ける。
葬儀やさんに車を回してもらうように電話しました。弟が持ってきた荷物・・・と言っても新しく親父の為に買ったシェーバーとその他。
看護婦さんが処置をするので、集会室にみんなで出る。パジャマから、お決まりの服に着替えさせてくれ、口が開かないように、あごにタオルを当てて紐で頭とくくる。など、やってくれました。
葬儀屋さんが到着し、葬儀屋さんの車に親父が運ばれる。病院の支払いのことなどを聞き、車で式場まで。
それから、式の段取りと費用などを話し合い、決めていく。義理母がクリスマスで、親父がバレンタインデーか・・・覚えやすくていいというか・・・14日の午前0時10分だったので、14日の夜にお通夜も出来たが、あえてもう1日遅らせることにしました。もう動かなくなっちゃったけど、この1日が何か貴重な気がした。全てを仮決めして時計を見ると、午前4時半です。

式場の方は、一旦家に帰って休むことを薦めてくれる。「葬儀が終わるまで、大変ですから、少しでも睡眠をとった方がいいです。お父様は、こちらでちゃんとケアしますから」。弟が、「僕は残りたい」と言うので、1人残しみんな一旦自宅に引き上げる。弟は、翌日も家族4人で、親父のそばで眠った。弟の希望でもあるのだろうが、喪主である私を気遣ったのだとも思う。男兄弟というものは、こういう時本音で話せない部分がある。相手を気遣う言葉をかけてしまうと、「いや、俺は大丈夫やから」なんて空元気を出して建前だけで行動する部分が男にはあるように思う。まあ、女性のように柔軟性がないんだなあ。
式場候補などを事前に決めるときも、あえて弟は口を出さないようにしていたように思うし、具体的な式の内容にしても、「お兄ちゃんと姉さんが決めたら、僕らはそれに従うから」と、ただ聞いているだけ。私達夫婦が、家内の実家のことに、お姉さん夫婦に一任しているのと同じ関係です。自分が弟からされてみて、とてもありがたいと思った。相続争いなんて、最低だと思う。普通の人間なら、任された事をいいことに自分の得になるように行動することはまずない。
そんなことして多少得をしても、世間は見ているもので、親戚関係からそういう目で見られ、いざと言うとき、とことん助けてくれることはないように思う。結局、家の見えない体力を削いでしまうだけ。多少損をするぐらいでいると、見えない体力がつき、苦境のとき、どこからか助けが入るもの。それを神様と呼ぶのかもしれないけど、結局日頃の行いだと思う。

短い睡眠をとり、仕事場に行き、関係各方面に連絡を取る。両親の親戚関係は、母が連絡するという。家内は、母に任せればいいというが、私は見舞い話ばかりで具体的な話が出来ないのではないかと、家内がやった方がいいと思ったが、まあ仕方ない。
仕事関係、父の元の仕事関係、私の関係先などに連絡を取りながら、葬儀会館で行われる父の最後の体の洗い、湯かんと言ったっけ?お寺さんとの最初の法要などの時間に合わせて、従業員さんに頼んで仕事場を抜け出す。関係先に連絡し、FAXをするだけで、午後までかかってしまった。
弟も従業員さんに任せて完全に仕事を休み、連絡は嫁さんに任せている。次男と弟が父についてくれている。お寺さんの法要の前に長男が帰ってきた。爺ちゃんの顔にかかった白布をはずし、手を合わせ、爺ちゃんの頭を触っている。やがて、頭を下げて、さめざめと泣いているようだ。
生まれた時から24年、ずっと隣の家にいた爺ちゃんとの想い出を振り返っているのかもしれない。私達が、母親の仕事場は近所だけど共働きなので、爺ちゃんに車に乗せてもらって、1時間内外のいろんなところに行った想い出・・・竹とんぼや紙飛行機などを作ってもらった想い出・・・公園の家で捕まえてきた魚を庭の池に入れてかき混ぜた想い出・・・どんなことを思い出しているのだろう。彼は初孫だから、よくしてもらったと思う。

次男が小学校のときの「一番便利なもの」というテーマの作文で、「お爺ちゃん」という題で書いた。先生から、他の子はみんな、おもちゃだったり、車だったり、大抵物を題名にするのだけど、「お爺ちゃん」というのは珍しいですと、家内が聞いてきた。
確かに、お爺ちゃんは子供達が生まれた時からずっと病気持ちで、入院していない時は、いつでも隣にいて便利な存在なんだろう。この作文のことは、長くうちで勤めてくれている方が思い出させてくれた。
再び仕事場に戻り、翌日のお通夜と次の日の告別式の段取りを従業員さんに伝え、式への列席を頼む。開店・閉店時間、張り紙、人の手配・・・具体的に形にしていく。
具体化している間に、お客さんは来てくれるし、問い合わせの電話が仕事場や携帯に入る。店を早めに閉めて、お爺ちゃんのとこに行き、進捗状況を弟とすり合わせ、うちの家族は自宅に戻る。
お婆ちゃん担当の両実家の親戚のことが心配になって聞くと、「あそこから3人ぐらい来るみたい」がコロコロ変わって、家内が混乱している。まあいつものお袋だから、特に驚きもしないけど、いつもゆったりきちんと我が家で一番頼りになる家内が、イライラしているようで、興奮しているようで、「またわからなくなっちゃった」なんて言ってる。「大丈夫やって」「何とかなるって」「そういうこともあるって」と何度慰めたことか。
やっぱりこりゃあかんなと思い、お袋のところに行って、「名簿貸して。具体的に人数を積めなあかんから」と名簿を取り上げてしまった。「明日と明後日が本番やから、かぜでも引いたらあかんやん。ゆっくりしときな」なんて、プライドを潰さんように言うのは難しい。
家内も本当は、名簿を渡してもらって自分でやりたかったのだろうけど、嫁の立場だから遠慮して、きちんとした報告ではなく、希望的報告や確認していない報告で混乱しちゃったようだ。

家内の姉さんから、「宿が取れない」と連絡が入った。市内の宿は満室のようです。式場でもうちでも泊まれるけど、ホテルに泊まりたいようです。「ほんじゃ、取ったるわ」と長男が次男のPCに向かって、ガチャガチャやってる。「いいとこ、取ったげて。今回はお兄さん来ないから、羽伸ばそうと思ってるだろうから」と、家内がうちに泊まろうとしない姉の本心がわかったように言う。それを聞きながら、なるほど、旦那の私に「京都のホテル」とだけ言って、具体的なホテル名を言わずに1泊とかしてくるのと通じるものを感じた。夫婦仲が良い悪いでは判断できない、きっと男には永遠にわからない女心なんだろう。
長男が「何これ?ちょっと変じゃない?」、次男が「これMACやで」「げ〜、動きカッコええ」「ウィンドウズのヴィスタが、またマックの真似してんで。いっつもMACの真似やからなあ」。2人でゴソゴソ、15分ほどで、隣町で一番いいホテルの予約を取ったようだ。
お通夜の1泊、姉さんは、長男の送り迎え付きで、「温泉があってね。いいお湯やったわ」とご機嫌だった。

お通夜の当日、私は式場に詰めることにした。弔電がどんどん届き、料理の数など締め切り時間に追われて最終決定していかなければならない。式場の準備状況を見て、受付の確認・・・もう少し余裕があると思ったけど、仕事場に顔を見せる時間はなく、朝から任せることにした。お通夜の時間に間に合うように店を閉めて、式場に来るように言って、全て任せてしまった。
家内は午後まで休んで、お袋のサポートをすることにする。「準備できたら次男君に電話し。迎えに行くから」。葬儀の主役は、故人なんだろうが、もう一人の主役は家族、特にその家のお嫁さんのような気がする。参列者を迎えるとき、男の喪主では、やはり役不足。こういうのは女性に限る。喪主の横にいてサポートしているようで、男の参列者はやっぱりお嫁さんの出迎えがいい。喪服の女性は・・・
男は、しっかりして動じていない態度でしか様にならないが、喪主のお嫁さんは、しっかりしてても取り乱していてもみんな様になる。静かな涙なんて、最高のパフォーマンスかもしれない。

親戚関係、会社関係、友人関係・・・いろんな生花が並んだ。親父は病気で一線を引退して25年。今は、その業界でトップ企業になったW社から、会長さん・社長さんはじめたくさん生花をあげてもらったが、その他はみんな私や家内がらみ。終戦後、ほぼつぶれていたW社を、親父が勤めていた商社のM産業の資金で立て直した。
成績の悪かった大阪支店を、親戚である親父に任せて、親父は見事建て直し、東京本社以上に儲けて、利益の大半を大阪支店で稼ぐようになり、大阪支店のお金をつぎ込んで建て直した。
まあ、商社にしかわからない金のなるくず布を、W社が大量に持っていたからだが、それを一手に引き受けて、親父もW社も大儲けした。今があるのはと・・・最後まで厚く礼を尽くしてくれる。W社の社長さんが、親父の長男の、つまり私の仲人を、是非やらしてくれと受けてくれて、息子さんのお嫁さんの紹介を私に頼んでくれた。
出来すぎの親父を警戒し、親父を首にして社長の息子さんのライバルを切ったつもりだったが、その息子さんが急逝し、結局会社自体を他の商社に売らざる終えなくなった。
親父が危機を救ったW社が、当時の社長が変わり、もう亡くなった今も恩を伝えているのと、親父の勤めていたM産業の社長の器の小ささが対比される。親父が切られたのに不安を感じた大阪支店の部下だった方たちが、親父に相談しに来て、親父がW社に就職を頼み込んで転職させた。狭い我が家に背広の人達が来ていたのを思い出す。結局その方達が、死に物狂いで働いてW社の業績の伸びに一役買った。少し前のトップは、親父の元部下達が多くいたようだ。関係ないのに、毎年W社の慰安旅行だなんだかんだと誘われて、親父は楽しみに出かけていた。
日頃の行動は、神様がきちんと見ている。

友人も、私の関係。ヨット関係で5本。次男のヨットも噛んでるかな・・・。弔電も、大多数が私と家内の仕事関係。改めて、葬儀というものは、こういうものだなあと思う。
親戚が昼を回って続々集まりだした。と言っても両親は北関東出身なので、それほど多いわけではない。親父の方が7人でお袋の方が2人。お袋の方は、告別式にプラス3人。お袋から名簿を取り上げて、私が送ればせながら当たって、何とか形をつけた感じかな?具体的な日時や場所が、FAXなどのペーパーでなかったので、正直困っていたようだ。
やってきた親戚を、弟の子供達が愛嬌を振りまいて和ませている。子供は、本当に得だ。ただ普通にしてるだけで、場をやわらげさせる。

お通夜の30分前。入口に、私と弟夫婦が並び出迎える。近所の方、うちの取引先、そして私の友人・・・挨拶しながら店のお客さんでもあるご近所さんが・・・子供をほめてくれる。家内が、「長男君が、演説したんじゃないの?」。うやら、店の前の送迎バスを車でサポートした長男が、一節ぶったようです。
後で長男に聞くと、お客さんをバスに誘導して、最後ちょっとバスに乗って、お礼言っただけということでしたが、何か印象に残ることをしゃべったのでしょう。親から言うのもなんですが、彼は弁が立ちます。
弟の子供達が花束を持って、お爺ちゃんの棺の上に乗せ、式が始まりました。保育園の下の女の子がかわいくて、絵になります。進行の方に言われた事をちゃんと聞いていて、お辞儀をするのも忘れず出来ました。なかなか賢いです。
最後に、喪主の挨拶です。今まで、お葬式に出る度感じる、「何で亡くなったの?」「故人はどんな人生を歩まれたの?」をきちんと喪主から説明した方がいいと思い、そういうことを話し、さらに私が感じた父親、親父から学んだことなどを加えました。

打ち合わせのとき、式の担当の方から、「告別式にしっかり話して、お通夜はお礼だけが多いことや、喪主に成り代わりと言う風に進行の方から話しても、家族の失意があるので失礼になりませんよ」とアドバイスされ、お通夜はお礼だけにするかなと思いましたが、家内が「あなたがしゃべらないと。お通夜だけの人も多いし」と、ダメ出しが入りました。まあ、この旦那だったら、適当にしゃべるだろうと踏んでいたのでしょう。
随分前に、従業員さんの結婚式で主賓をしたとき、夫婦で出席し、主賓の挨拶に家内が泣いてしまったことがありました。その後、旦那さんの家族や、出席者から、えらく褒められました。旦那さんが自衛隊員だったので、硬い勇ましい挨拶が多い中、軟弱な私の挨拶が目立っただけのような気がしますが、以来いつもドキドキ物の挨拶なのですが、「良かった」と言われることが多いです。
自分で思うのですが、体育会ヨット部で学生時代大分鍛えられた感じはあります。毎日の練習の前と後ろ、練習後のミーティングでいつもしゃべる機会が与えられたからです。上回生にあがると、それなりの話が必要になりますから。
その結婚式での家内の涙は、私の話の内容に感動した涙ではないと思っています。自分の旦那が成長したと、母親が息子の成長に喜ぶ涙です。長男が小1で、運動会の選手宣誓をしたとき見せた涙と一緒です。
今回も、そうはない機会を旦那にチャレンジしてもらおうと思っただけのように思います。それに、多くお越しいただいた近所のお客さんに、きちんと説明しなければと、思ったのかもしれません。

参列者を乗せたバスを見送り、一段落すると、親戚のおじさん達から喪主挨拶は良かったよと褒められました。姉さんからも、「上手やわあ」と言われ、12月の義理母の時、兄さんは何度も原稿を書き直していたけど、何もなしであれだけしゃべれたら、すごいじゃない、なんて言われました。
好事魔多し・・・これで図に乗って、翌日の告別式では、別バージョンでいかないと、2度聞くことになる親戚などにはつまらないかなあと思ってしまいました。
最初ホテルで泊まることを予定していた、父方の兄弟や従兄弟は、式場の宿泊室にみんなで泊まることになりました。弟の家族と義理母さんが、別の部屋で泊まることになり、私達は親父を任せて自宅に戻りました。
受付のところで誘導する長男と、受付で生花などの代金を集金する次男も、任せておけば十分で、私などよりよっぽど上手にやってくれました。「まあ、今日みたいなので行こうや」で眠りました。

告別式もいい天気でした。雨に降られると、斎場などに移動することがあり、いやだなあと思っていたら、いい按配に晴れでした。式は11時前からですが、家内や母の着付けがあるし、式場に泊まっている親戚のこともあり、7時半出発です。姉を迎えにいく長男も少し後で出発です。渋滞があれば困ってしまうので、余裕を持って姉の出発時間を決めましたが、結局前日ホテルに送っていった時以上に空いていて、早く着きすぎてしまいました。
でもここでハプニング。家内が着付けの部屋から走ってきて、「着物間違えちゃった」ほんといつも冷静で、我が家の良心であり、我が家の常識である家内が、冷静さを欠いています。こういうときにドキドキも慌てもせず、冷静に次やることを頭で追っている私は、結構度胸が座ってるのかもしれません。「大丈夫やって。今から家に取りに帰ろう」と、車を出したら長男・次男・姉さんが到着して、車を次男に頼みました。
「いよいよ今日で親父の顔ともお別れか」と思いながら、棺の窓を開け、親父を見ます。苦しまずに済んだので、いつものような顔をしています。最後の入院期間が3ヶ月と短く、頭の方は、もう家族の認識が出来なくなったけど、1週間前まで食べれたので、やせた感じはありません。
弔電の読む順番と振り仮名をしなければなりません。順番は出来ているので、振り仮名です。友人や親戚なんかはわかるのですが、取引先の個人名で読みがわからないのがあります。ちゃんと振り仮名つきの弔電もあり、助かりました。これから自分が出すときは、振り仮名付きにしたいと思います。弟と2人、その作業をしていると、郵便やさんが何度も持ってきてくれます。ありがたいです。

親戚の焼香順表を作り、斎場へのバスの手配や焼き上がるまでの間、食事を取るので、その人数の最終を提出しなければなりません。具体的なものを提出し終わると、親父の棺があるステージをバックに親戚全員の集合写真撮りです。お通夜では、私と弟夫婦と母だけが席が決まっていましたが、告別式では、焼香順に親戚が席に着く必要があるそうで、参列者への出迎えの挨拶の途中で席に着くことになりました。長男と次男だけが、受付で最後までがんばってくれています。
子供達が戻ってきて、告別式が始まります。まず、長男の顕火からです。お辞儀が、さすがに社会人1年生。入社して半年、いろいろ教えてもらった社会人としての、企業の顔としての作法。きれいなお辞儀です。若者らしく颯爽として、親として、見ていてうれしくなる姿です。
そして最後の喪主挨拶がやってきました。母・家内・弟夫婦で前に出て、お辞儀をしてから私のマイクパフォーマンス。お通夜では、「父は群馬県出身です・・・」から話し始めたのですが、今回は、

「2月14日バレンタインデーに日付が変わり、布団の中でまどろんでいると、電話が鳴りました。何かいやな予感がしたのですが、病院からで、「通常のケアをしている途中で、お父様の息がスーッと消えました」というものでした。
急いで家族で駆けつけると、親父からは点滴のチューブもはずされていていました。苦しまずに逝けた安らかな顔を見ていると、私が子供の頃、一番のお気に入りだった親父の胡坐を思い出しました。

親父が座っていると、いつも大きな胡坐の上に座るのが好きでした。そこに座ると、私の前に大きな親父の手が回ってきて、いろんな話をしてくれました。
ここで母が泣いてしまいました。さめざめではなく、感極まった嗚咽に近いものです。
一番多く聞いた話は、戦争の話かもしれません。たぶん親父の生涯でもっとも過酷で、仲間が次々に倒れていくもっとも辛い時期だったかもしれません。
戦争と言っても、ほとんど逃げ回っていて、時たま攻撃命令が出る。夜、広場のようなところで自分が入れる大きさの穴を掘り、その中に爆弾とともに入る。敵戦車が上を通ったら自ら爆弾を爆発させる辛いものです。
真っ暗な中、1人で穴に入っていると、人の叫ぶ声が聞こえる。泣く声が聞こえる。
幸い戦車が通らず翌朝を迎えると、幽霊のような仲間達が集合場所に集まってくる。

戦士というが、大半は飢えによる餓死で、おなかが空いて歩けなくなる兵隊を助けようと思う心もなくなっていく。銃撃戦では、前の防御も必要だが、後ろの防御も大切で、後ろからつまり友軍から撃たれる兵も多数いる。なぜ撃たれるか知ってるか?
上官という立場の強さを利用して、日頃弱いものいじめしている者が後ろから撃たれる。ええか、意見の違いがあれば堂々と発言したらいい。でも弱い立場の者に言い過ぎてはいけない。そして、自分の意見が通るようになっても、勝ち切ってはいけない。相手もちゃんと立てないといけない。立場を失わせるようなことをしてはいけない。
父からの話でなぜか一番印象に残っているのは、このことです。私は、父から学んだそのような生き方を目指してきたつもりですが、果たして父から合格をもらえるか・・・

30人ほどの部隊の隊長になった父に、突撃命令が下りました。明日は命がないと思い眠ったのですが、翌朝は40度以上の熱になりました。マラリアです。多くの仲間がマラリアで死んで行ったので、自分は戦闘ではなく病気で死ぬのかと悲観したそうです。
結局その日の戦闘で、父の部下は3人しか帰ってこず、死の病だったマラリアを克服して父は生き残ることが出来ました。
父には、お尻と背中に銃痕があります。一緒にお風呂に入ったとき、「お父さんはついてるからお前もついてるぞ」とよく聞かされました。戦争でのいろんな話が、みんな俺はついてる、だからお前もついてるという結論に達します。

父は、群馬県出身です。父の親戚の会社の大阪支店に勤務している時、栃木出身の母と結婚しました。やがて店をすることになり、その候補地を探したとき、もっとも大事な要素が、環境のいいところというものでした。私は小学校2年生でしたが、弟はまだ2才です。私と言うより、弟を安全でいい環境で育てたいと思ったのだと思います。
近所にある大きな公園で、蝉取り・カブトムシ取り・魚釣り・そのまま池で泳ぐなど、いいところで育つことができました。
私が大学を卒業して数年後、父の腎臓に癌が見つかりました。医者からは、多分転移してるだろうから、余命半年と言われました。弟がまだ学生で、私はどうしようかと思いました。そのとき腎臓を片方取ってから今25年、やはり親父はついていたようです。途中、肺に出来た癌を取り、今回は脳に数箇所出来て、手術することは出来ませんでした。
この25年は、親父にとって大きかったと思います。私の長男が今25才、次男が22才。初孫の誕生から社会人になるまでそばで見ることが出来ました。弟の結婚も、その子も見ることが出来ました。弟の2人目の子は待望の女の子です。
この25年の間に、戦争以外で初めて海外旅行をし、その後20数回海外に出て、アジアからエジプト・ヨーロッパ・ゴビ砂漠横断旅行まで、こんなに世界を見て回れた人もそれほど多くないと思います。神様がくれた25年。
そして82才で終える生涯。もう天命を全うしたと言っていいです。わが親父ながら、親父の人生が羨ましくもあります。

親父も私達家族も、近所の皆様、取引先、様々な多くの方に支えられて生きてまいりました。今日、ここにお集まりいただいた皆様は、その代表の方々だと思っています。私はこの地が好きです。父の人生をどうもありがとうございました。
そして、これからもこの地で私達家族は生きていこうと思っています。一生懸命やるつもりですので、出来れば末永くお付き合い願えればと思っております。今日は、どうもありがとうございました」

お通夜と違う挨拶をするつもりだったけど、無駄に話が長くなっただけだったような・・・今まで参列したお葬式での喪主の挨拶に比べて、圧倒的に長かったように思う。多分参列してくださった方々も驚いたのではないだろうか?話をしている途中で「長いな」と思ったけど、もう最後まで行かなあかんなと、覚悟を決めちゃった。
深々と頭を下げ、私の人生で初めての喪主を終えました。「お疲れの出ませんように」「ご苦労様でした。ゆっくり休んでください」といろんな方からありがたいお言葉をいただきましたが、特に疲れたという感じはありませんでした。めまぐるしい3日間でしたが、冷静で余裕を持っていられたように思います。イベントの企画・管理・進行、こういうの好きだからなあ。学生時代、スポーツクラブを仲間と作って、スキーツアーなどを企画し、ツアー責任者としてお金の管理からバス添乗員、スキーインストラクター・・・1冬にバス50台ほど出したし、夏には桑名正博の船上ライブパーティーなんかもしちゃった。あれに比べれば喪主は楽でした。

2007/2/12
先週は、仏さん関係がいろいろありました。
弟の奥さんの父親が亡くなりました。年末に私の義理母が亡くなって、まだ1ヶ月とちょっとなのに、再び不幸です。木曜日のお通夜は、私だけで行き、お葬式には家内と母と3人で行ってきました。弟の奥さんの実家は泉州で、弟はそっちに住んでいますが・・・泉州といえば「だんじり」です。「だんじり」が、実家の前の道を走るので、2Fが絶好の観覧席になると、亡くなったお父さんに誘われたこともありました。
お通夜に出向いて、式場に「だんじり囃子」が流れていました。そりゃ、お通夜だから大騒ぎというわけではありませんが、静かながらだんじり囃子に合わせた掛け声も聞こえてきます。この辺の地の人にしみ込んだ音楽はこれなのでしょう。
御花を、私と父と義理兄で3つ出しましたが、・・町青年会とか・・町若頭、・・子ども会、・・婦人会、・・隣組・・・と、近隣の縁の深さが偲ばれる御花が並んでいました。だんじり囃子を聞きながらだから、子供のときからだんじり祭りに向けての硬い組織作りを考えずにはおられませんでした。
泉州の人は、だんじりの時は、仕事にならないというか、男は仕事をやってないと聞いたことがあります。それに文句でも言おうものなら、あっさり会社を辞めて、だんじりを優先する気質だと聞いたことがあります。
お寺さんのお経が終わったあとで、婦人部の方が30人ほど前に行かれました。机と椅子を斎場の係員の方々が用意して、般若心境が始まりました。それに合わせて、鈴や鉦を鳴らし、昔TVで見た田んぼのあぜ道を大勢でお経を唱えながら墓に向かう葬送の行列を思い出しました。それが1時間も続きました。これだけの人数を動員する婦人会の組織力は、都会では無理です。30名の端には、衣装や鉦を持っていない若い奥さん風の方がおられて、新たにこの地域にお嫁に来た方かもしれません。
お葬式では、7人のお寺さんが来られましたが、先頭が笙(しょう?)、次の方が縦笛、次が横笛を吹いて入ってこられました。笙の方は、座ってからも焼香の器の上にかざし、笙を常に暖めていました。縦笛は、今の楽器ではないので、かなり力いっぱい息を吹き込まないと鳴らないのか、顔を真っ赤にして、吹いておられました。まるで平安時代のようでした。
ここの家は、2Fから前方後円墳が見える多数の遺跡に囲まれたような場所にあります。弟のお嫁さんは、子供のころ、古墳を遊び場にしていたようで、瓦のかけらなんかいっぱいあったし、洞窟に入ると絵が描いてあったなんて言ってました。さすがに今は、立ち入り禁止になったようですが、笙の調べが合う土地柄なんでしょう。

日曜日は、義理母の49日法要でした。毎週法事が続きましたが、これで一段落です。義理母の祭壇が取り払われ、ご先祖様と同じ仏壇に義理母の位牌が引越しです。家内は妹なので、それほどでもありませんが、家内の姉夫婦は大変だったと思います。これから、実家にあった仏壇を守っていかなければなりません。私達も、できるだけ協力しなければ。
昼食をみんなで食べているとき、兄が「僕らのお墓も用意しなきゃな」と、ポツリ。「そっちは、どうなってるの?」「うちは、まだ仏さんはいませんが、お墓だけはあります。買ったのはもうずいぶん前です」「そう、義理母の先祖代々の墓の隣に建てようかな?それとも近くに建てて、先祖の墓を移動してくるかな?」
家内の実家は、家内と姉の姉妹だけだったので、苗字が絶えてしまいます。お兄さんは長男ではないので、苗字は違いますが、実家近くに住み、何かと実家の面倒を見てきました。お正月は、義理父が亡くなってから、ずっと義理母と一緒に過ごしました。家内も安心していられたし・・・穏やかでしっかりしたいいお兄さんでよかったです。

そして、その夜、うちの税理士さんのお通夜でした。この税理士さんとは、お父さんの代からの付き合いなので・・・仕事とともにプライベートでも残念でなりません。私が会社を立ち上げて、最初についてもらった税理士さんは、悠々自適のアルバイト的な方でした。何もわからない私を、暇に任せて、いろいろ指導していただきました。でも高齢だったので、数年で亡くなりました。自分が死んだら・・・と、ちゃんと私の税務を引き継ぐ方を、用意してくれていました。
すぐに、今の税理士さんのお父さんのお世話になりました。そして数年後、30歳を越えていたと思うが、その息子さんが税理士になられました。うちに来て、息子が税理士になったと喜んで話していたのを思い出します。やがて、お父さんお税理士事務所を実質息子さんが運営するようになり、うちの税務も息子さんにしてもらうようになりました。
年齢も近く、いい感じでここまで来ました。そして年末の12月30日に、お父さんが亡くなりました。うちが義理母の葬儀、その他でバタバタしていた同じとき、お父さんも亡くなったようです。
息子さんが、「年末に父がなくなりました。年末年始という時期ですので、連絡できずにすいませんでした。お葬式は大変ですわ。2月に入りやっとこ平常に戻ってきました」と、消費税関係の納税の件でうちに来られたときに聞きました。
義理母の49日が終われば、一度税理士さんの家に行って、お線香でも上げに行かなきゃなと、思っていたところでした。金曜日に、弟の義理父の葬儀を終え、仕事場に戻ると、税理士事務所の事務員さんから電話をもらいました。
「先生が亡くなりましたので・・・」。・・・?てっきりお父さんの事だと思っていたので、一瞬?でした。
でもよく聞いてみると、「若先生が・・・」「え〜。数日前に来たばかりだよ?」「交通事故ですか?」「・・・いえ・・・事故です」。なんかそれ以上訊いてはいけない感じがしたので、葬送の日時をFAXで流してもらうよう言って、電話を切りました。
日曜日お通夜で、月曜日がお葬式。交通事故ではないどんな事故なのか?自死は、考えられないし、家族葬になりそうだから、きっと違うし。お通夜には、大勢の方が来られていました。3人のお嬢さんの友達と、そのお母さんが大勢でした。お嬢さんの制服ですぐわかるこの辺で有名な私立の女子校に上の2人が通っておられ、3人目は小学生。中学受験を2人終え、あと1人だったんだなあ。
一般参列者の焼香が始まり、横で奥さんとお嬢さんたちが並びます。大先生の奥さんは、高齢なので、最前列で座っています。私は、大先生の奥さんにお悔やみを言い、その後焼香。そして奥さんとお嬢さん方に・・・奥さんは泣きはらしていますが、お嬢さんたちは、一生懸命参列者に頭を下げておられます。お嬢さんたちの強さは、お母さんをどれだけ助けただろう。これからもお母さんの気持ちのより所になっていくだろう・・・
同じ制服を着た学校の友達の焼香に・・・お互いどんな顔をして、どんな言葉をかけたらいいのか・・・一瞬、はにかむような、辛さが増したような表情・・・でも、できるだけ明るくという感じの顔に戻り・・・私は大丈夫だからと、むしろ友達の気持ちを気遣っているような・・・そして、ここで私達が崩れちゃったら、お母さんが・・・そんな感じがひしひしと伝わってきます。
事故は訊かずじまいでしたが、近くに座っておられた方が、2Fから落ちたしまったと話していました。お通夜からの帰り、「せめて子供が独り立ちする大学生までは、親は石にかじりついても生きなあかんなあ」と、強く感じました。冬に入り続いた親戚の不幸とは大きく違う葬送でした。

2007/2/7
月曜日の夜、いつものようにTVにタイマーかけて布団の中でまどろんで、リモコンでチャンネル変えたらスーパーボールの試合をTVでやってました。結果はニュースで知ってたけど、「見たかったなあ」と思ってたので、とてもラッキーでした。しかも、試合が始まる前のアメリカ国家を斉唱の場面でした。最高にラッキーです。
スタジアムでは、思い思いの様子で、国家を聞いていましたが、選手も観客も胸に手を斜めに当てている光景は・・・雨に濡れながら国旗を見つめて・・・かっこいいです。国家が終わると、ちょうどその時、ジェット戦闘機の編隊が上空を飛び去りました。なんちゅうか、秒単位で地上と空中が連動してるようです。かっこいいです・・・アメリカ。
試合が始まりました。ニュースで聞いてたキックオフ・リターンタッチダウン。目を皿のようにして見ました。シカゴベアーズのルーキーでありながら、シーズン最多キックオフ・リターンタッチダウン記録を塗り替えたヘスターがキャッチして、斜め前に3人のディフェンダーを従えて中央方向に切り込みます。コルツの選手がヘスターを止めようとタックルしてきますが、へスターを守る3人のディフェンダーが、1人の指示で動いているようで、一斉にコルツの選手にぶつかったり、前で転んだりして、コルツの選手を転がします。その第一線を間一髪突破したヘスターは、そのままエンドゾーンまで走り抜け、タッチダウン。
キックオフリターンは、アメリカンフットボールの見所の1つです。足が早くて、フェイントを入れて、相手選手のタックルを交わす花形選手。シリーズ史上最短タッチダウン記録だそうです。へスターは新人なのに、すごい選手です。チームにとって強力な得点源です。そう言えば、昨年の甲子園ボールで母校アメリカンフットボールチームも、いきなり法政のリターナーにやられました。
雨で手が滑るので、両チームともターンオーバーが多くでました。日本のアメリカンの試合に比べて、ディフェンダーのインターセプトがうまく、その分QBからのパスも早く、数段上のレベルです。コルツの史上最高のQBと言われているマニングは得意なパスを減らし、ランニングプレイを多用して、結局逆転勝利したようです。
へスターのプレイを見て、マニングのファースト攻撃シリーズを見て・・・ファースト・クウォーターの途中で、自然に寝てしまいました。確か昨年も途中で寝てしまったような。
それともう1つ、いいことがありました。解説者のほかに、もう1人のお姉さんゲストがいました。何と、「安良城紅」さんでした。NHK教育TVで毎日やってる『新感覚英語講座』のお姉さんです。ドイツ語講座のリーザの次にいいかな。スーパーボールを見ながら、この声は・・・ひょっとすると・・・確かに・・・絶対・・・やっぱり・・・でした。
巷ではNHKが、いろいろ叩かれていますが、NHK受信料を払わんとこかなんて全然思わない派です。なんだかんだ言いながら、いい番組を放映していると思います。NHK特集・土曜ドラマ・海外ドラマシリーズ・オンエアバトル・その時歴史が動いた・知るを楽しむ・トップランナー・視点論点。高校数学講座で段々訳わかんなくなり、サイエンスZEROの真鍋さんはいいなと思い。そして外せないのが外国語講座。韓国語・中国語講座は飛ばすけど、スペイン語講座の笑い飯はちょっと見て、トルコ語講座のお姉さんは中々いいし、トルコの映像に惹かれる。でも今の一番は、「新感覚英語講座」の安良城紅さんと、「ドイツ語講座」のLIZAさんです。英語は毎日やってるけど、週1回のドイツ語がある水曜日は楽しみです。英語とドイツ語と1時間ぐらいの間に両方するからね。私の場合、学んでいるのではなく、見ているな・・・いや観ています。4月の番組改変で出演者が変わると困っちゃうんですけど。

2007/2/5
日曜日は、京都の1回生とマネージャーさんを西宮のエ号に招待です。10時出艇予定でしたが、電車の乗り間違いがあり予定より遅れてしまいました。京都から大阪と違う方向に行ったり、JR尼崎から宝塚の方に行ったり、JR西宮は簡単だと思って思ってましたが、下宿生にとってはたくさん落とし穴がありました。私が東京で訳が分からなくなるのと同じですね。まあ特に急ぐこともないOFFの日ですので問題ありません。
ハーバーに着くと、まず手袋の調達にダンシングクイーンに向かいます。関大が秀麗の船底塗り替えをみんなでしています。若者の音楽がかけていました。DQに着くと、ちょうど大野さんがドラゴンの整備をされていました。3回生のトキワさんは、隣の艇庫で好感度抜群の大野さんの息子さんを知っており、大野パパと会えて嬉しそうです。
出艇申告をして早速E号で出発です。原さんを待たせてしまいました。今日の目的地は神戸空港です。西出口から出てセールアップ。東にはKGの練習が見えます。後期のテストが終わり、クラブも今シーズンに向かって始動のようです。
北の風を受けて赤灯台を目指します。時折西よりのいいブローが入りますが、ヘルムスのカトウ君は1年生ですが、数ヶ月ホッパーに乗っていただけあって、安心していられます。木曜日には自主練習でスナイプのスキッパーもしたようで、いろんなポジションをしてヨットの幅を広げていってほしいです。1ポイントリーフしてジェノアも少しファーリング。続いてトキワさん、マユミさんとヘルムスを交代し、神戸空港の連絡橋の下をくぐります。
海上の飛行機誘導灯をかわしてジャイブ。この頃から風が弱くなってきて、フルセールにサイズアップです。クローズで西宮までの帰路ですが、トキワさんは中々ヘルムスがうまいです。安定して走っています。他競技ですが、さすが元国体選手だけあって運動センスがいいです。
その後、更に風が落ちるとジェノアを巻いて機走、ブローが入るとエンジン切ってセーリングと、赤灯台まで帰ってきました。そこで4時ぐらいで、もうタイムリミット。メインも下ろして機走でハーバーバックしました。
135伊藤君が、ウインチグリスなどを船に入れてくれていたようで、次回はウインチの分解整備とバッテリー固定の仕事をしなければ。

2007/1/29
日曜日は店のあるマンションの臨時総会でしたが、議題を見て、「管理規約のミスを訂正すること」と、「理事会には理事の代理として家族やその会社の人以外はダメですよ」という、当たり前のことだったので、理事長に一任してサボりました。
法事続きだったので、久しぶりに海に出てみたかったからですが、土曜の夜管理人さんに会ったところ、管理人さんから「反対が多いのですよ。何の問題もないはずなのに、参っちゃいます」と聞かされました。2年前までは、それほど揉める事もなかったのですが、2年前からおかしくなってきました。その時理事になった1人が、仕事を引退して暇なのか、熱心なのはありがたいのですが、独断で理事会を動かし始めました。
新しくお店を始められた方の店舗の造作が専有面積からはみ出ているとして、組合員に諮らずに裁判を始めました。壁の外に出ているわけではないので、専有面積オーバーでも問題ないんじゃないのかなと思い、裁判費用が皆さんの積立金から崩されるのが気になりました。店舗さんは、間違ってたらあかんと思って、ご自身の費用で測量士を入れて測られ、間違っていないことを確かめました。
裁判は理事さんが負けたのですが、そのお店が飲食店なので、においがどうのこうの・・・まあ大人気ないことです。続いて、最初からずっと管理してくれていた管理会社に、いきなり契約打ち切り通告をして、別の管理会社を総会にいきなり連れて来ました。しかも弁護士同席です。管理会社の変更は、総会に諮らないといけないと管理規約に書かれているのに無視して、寝耳に水でした。総会に弁護士が同席するのも初めてで、ビデオカメラまで入っていました。「なんなのこの総会は」と思い、多数の反対意見で弁護士は退席し、管理会社の件も手続き不備で戻しました。
昨年、新しく入った店舗さんに貸している不動産屋さんが理事長になりましたが、ことごとく問題の理事さんが反対します。不動産屋さんは、すぐ前に店舗を構え、このマンションにも数戸区分所有しています。他にいろんな物件を所有しているプロなので、管理規約の文言の不備を訂正し、管理費の値下げ、電気料金の計算方法の不備など、皆さんの損になることなく、改善してくれるのに、何故か反対されます。
「プロだから、いつかこのマンションを乗っ取ろうとしている」など、根も葉もない噂を、暇に任せて区分所有者に触れ回っているようです。エレベーター内に、不動産屋さんの個人名を上げて中傷する文書を貼り、誰が貼ったか知らぬ存ぜぬでしたが、防犯カメラにきっちり写っています。不動産屋さんは名誉毀損で裁判も辞さないよといいながら、まあ同じマンションの人だからと、あきれていました。
この理事さんも、ちゃんと情報をオープンにして、皆さんに同意を得ながらすればいいのに、「この方がいいんや」と独断で進めるからおかしくなるんですね。反対があったら真摯に意見を聞いて修正など考えたらいいのに、自分に反対する人とは対決姿勢になるから、ゴチャゴチャへんてこな方向に進んでしまいます。今度理事の任期が切れるので、誰か別の理事さんの代理として理事会に留まろうとしています。これが通ると、同じ人がずっと理事という民主的とは言えない変な理事会になるので、規約改正して、順番に全員に回る理事職は、「その家族やその区分所有会社の関係者以外は認めない」と文言で明記することになったのです。それにも反対なんて、どんなんやと思います。それでもなお、冷静に規約に沿って対処していかなければと思っています。興奮して、冷静さを欠く対応をすれば負けですし、皆さんの気持ちがバラバラになるだけです。

土曜日の管理人さんの話を聞き、やっぱり臨時総会に出た方がいいかなあと思いながらも、賛成が大半ということで、やっぱりサボることにしました。10時を目標に浜を目指しましたが、映画「蝉しぐれ」をDVDで観ていて、30分遅刻です。最も好きな小説藤沢周平「蝉しぐれ」は、小説・NHNドラマ・映画とみんな持っていますが、どれを何度観ても感動してしまいます。
ちょうどハーバーに着いた時、原さんから電話が入りました。「すいません、遅れました」。金野さんもまだ着いていないようです。ダンシングクイーンの中に入ってる手袋を取り、ハーバーカウンターで出艇申告していると、金野さんが来られました。
船に着くと、早速沖に出てセーリングです。冬なので、北西の強風だったら嫌だなと思っていたのですが、3〜6m/sのいい風で、それほど寒くもありませんでした。東出口から出て、沖の一文字の白灯台を北港側に出て、神戸空港に向かってのぼりです。原さんが、Win98からXPに変えたそうで、最新式のヴィスタか値が下がっているXPか・・・なんて話。電気のコンセントに突っ込めば、ネットに繋がるのが便利だけど、まだ普及していないとか・・・「スピン上げる?」「え〜、面倒〜」・・・いつもの適当セーリングです。12時を回り、KGヨット部の理事会が終わったと思って、森田さんに電話しましたが、JSAFの理事会だそうで東京でした。ああ勘違い。
セールダウンし、ベルポートのハーバーを見学することにしました。ゲストバースに近づくと、職員さんが2人出てきて、「すいません、今日は着けません。見学だけです」と声を張り上げました。ぐるぐる港内を回り、個人桟橋がついた家の方も見に行きました。いいですね、でも台風や地震の時が怖いかも・・・まあ、とても買えないから、やせ我慢な発言です。
新西の桟橋に戻ると、伊藤君が「こんにちは」とやってきました。金野さんが気になっていたシンクのウォーターポンプ・スピンシート・ツイーカー・ウインチのメンテナンス・・・などを聞きました。ちょっと遅めの昼食をハーバーの前のマンション1Fで摂り、座席のニス塗りです。サンダーかけてニスを二度塗りして出来上がり、帰ろうと支度していたらバッテリーボックスからバッテリー液が漏れているのを発見してまた一仕事。1年程前、エンジンのかかりが悪く、私がバッテリー液を補充した時、入れすぎたのかもしれません。そのときは大丈夫だったバッテリー固定バーが何故か外れていて、ヒールなどで動いた時漏れたのかもしれません。まあ、こんな平和な日曜日でした。

2007/1/25
日経ビジネスの宋さんのコラムには、いつも考えさせられますが、今回のは特に印象深かったので自分自身が忘れないようにコピーしておきます。自分の今の気持ちも書こうかと思いましたが、このノンフィクションと紹介されている少女の生前の写真やお葬式の写真、彼女の詩の前には、あまりに陳腐で、書く勇気がありませんでした。

http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20070122/117394/?P=1
捨て子の少女の死と、脱・格差社会のもと
2007年1月25日 木曜日 宋 文洲

『1996年11月の四川省の寒村。若い未婚の男性農夫が草むらに捨てられた女の子の赤ちゃんに気づきました。赤ちゃんを育てるのは、貧乏な彼にとって重い負担。そう考える彼は何回も赤ちゃんを抱き上げては下ろし、立ち去ってはまた戻りました。最後、彼は命が尽きそうな赤ちゃんに呟きました。
「私と同じ、貧しい食事を食べてもいいかい」と。

独身のまま1児の父親になった農夫は、粉ミルクを買うお金もないため、赤ちゃんはお粥で大きく育てられました。病気がちな体は心配の種でしたが、聡明で近所からとてもかわいがられたのは、お父さんの救いでした。
女の子は5歳になると、自ら進んで家事を手伝うようになりました。洗濯、炊飯、草刈りと、小さな体を一生懸命に動かして、お父さんを手伝いました。ほかの子と違ってお母さんがいない少女は、お父さんと2人で家をきり盛りしました。

突然押し寄せた不幸
小学校に入ってからも、少女はお父さんをがっかりさせたことはありませんでした。習った歌をお披露目したり、学校での出来事を話したりと、お父さんを楽しませました。そんな平和な家庭に突然の暗雲がたれ込みました。
2005年5月。ある日、少女は鼻血がなかなか止まらない状態になりました。足にも赤い斑点が出たため、お父さんと病院に行くと、医者に告げられた病名は「急性白血病」でした。
目の前が真っ暗になりながら、お父さんは親戚と友人の元に出向き、借りられるだけのお金を借りました。しかし、必要な治療費は30万元。日本円にして400万円です。中国よりずっと裕福な日本でも、庶民にとっては大金になるような治療費を、中国の農民がどうにかできるはずもありません。集めたお金は焼け石に水でした。
かわいい我が子の治療費を集められない心労からか、日々痩せていくお父さんを目にして、少女は懇願しました。「お父さん、私、死にたい。もともと捨てられた時に、そのまま死んでいたのかもしれない。もういいから、退院させてください」と。

自ら治療を放棄すると退院
お父さんは少女に背を向けて、溢れ出た涙を隠しました。長い沈黙の後、「父さんは家を売るから、大丈夫だよ」と言いました。それを聞いて、女の子も泣き出しました。「もう人に聞いたの。お家を売っても1万元しかならないのでしょ。治療費は30万元ですよね」と。
6月18日、少女が読み書きできないお父さんに代わって病院に「私は娘への治療を放棄する」との書類を提出しました。彼女はまだ8歳でした。幼い子につらい思いをさせてしまったことを知ったお父さんは、病院の隅で泣き崩れました。そして娘を救うことのできない自分を恨み、運命の理不尽に怒りを覚えました。
娘は生まれてまもなく実の父母に捨てられたうえに、貧乏な自分と1日も豊かな生活を経験したことがありません。8歳になっても靴下さえ履いたことがありません。それでなくてもつらい人生を歩まなくてはいけなかったのに、さらに追い打ちをかけて病に苦しめられるとは。

退院して家に戻った少女は、入院する前と同じように家事をし、自分で体を洗います。お父さんに、自分は勤勉で、かわいく、そして綺麗好きな娘として記憶に残してほしい。そう願いながら、1つだけお父さんに甘えました。
新しい服を買ってもらい、お父さんと一緒に写真を撮ってもらったのです。それもお父さんを思ってのこと。「これで、いつでも私のことを思い出してもらえる」と。

70万元の寄付が集まり、治療を再開
ささいな幸せの日々も、終わりが見え始めてきました。病気は心臓に及び始め、ついに彼女は学校に行くのもままならなくなりました。苦痛から、学校に向かう小道を、1人カバンを背負って立ち尽くすこともありました。そんな時には、目は涙で溢れていました。
少女の死が近づいたころ、ある新聞記者が病院側からこの話を聞き、記事にしました。少女の話はたちまち中国全土に伝わり、人々は彼女のことで悲しみ、わずか10日間に70万元の寄付が集まりました。女の子の命はもう一度希望の火が灯され、彼女は成都の児童病院に入院し、治療を受け始めました。
化学治療の苦痛に、少女は一言も弱気を吐いたことがありません。骨髄に針を刺した時さえ、体一つ動かしません。ほかの子供と違って、少女は自分から甘えることをしないのです。

訪れた運命の日
2カ月の化学治療の間に、何度も生死をさまよいましたが、腕のよい医師の力もあって、一時は完全回復の期待も生まれました。しかし、…。やはり化学治療は、病が進行し衰弱していた少女の体には、無理を強いていたのです。
化学治療の合併症が起き、8月20日、女の子は昏睡状態に陥りました。朦朧とした意識の中で彼女は自分の余命を感じます。翌日、看病に来た新聞記者に女の子が遺書を渡しました。3枚もの遺書は彼女の死後の願いと人々への感謝の言葉で埋め尽くされています。8月22日、病魔に苦しめられた女の子は静かに逝きました。

少女のお父さんは冷たい娘をいつまでも抱きしめ涙を流しました。インターネット上も涙に溢れかえり、彼女の死のニュースには無数の人々がコメントを寄せました。8月26日、葬式は小雨の中で執り行われました。少女を見送りに来た人にあふれ、斎場の外まで人で埋まりました。
女の子の墓標の正面には彼女の微笑んでいる写真があります。写真の下部に「私は生きていました。お父さんのいい子でした」とあります。墓標の後ろには女の子の生涯が綴られてありますが、その文面の最後は「お嬢さん、安らかに眠りなさい。あなたがいれば天国はさらに美しくなる」と結ばれています。

殺人は微増にとどまるが…
紹介した話は、僕が中国で旅している間に偶然に耳にしたものです。詳細に興味を持つ方はどうぞ僕のブログをご覧ください。
セレブの奥さんが夫を、医師を目指す兄が妹を、バラバラ殺人する事件が相次いで報道されたり、息子が父親のしつけに耐えられなくなり、母親と幼い兄弟を放火殺人してしまったり、とここ最近、家族同士の殺人事件のニュースを聞かない日がないくらい増えています。
家族同士の殺人事件は、今に始まったことではありませんが、どうも最近はこれまで以上に凄惨になり、数も増えている気がします。
2006年版の警察白書によれば、刑法犯で警察が被害届を受理した件数(認知件数)は2001年度に273万5000件だったのが、2005年度には226万9000件と減り、殺人事件は同じく1340件が1392件と微増、放火は2006件が1904件と減っています。検挙件数で見ると、殺人は1261件が1345件と、これも増えてはいますが、目立って増えているわけではありません。
白書の統計の中で、家族間の殺人がどのようになっているのか分からないので、凄惨な家族殺人が増えているというのは単なる印象論なのですが、どうも現代の日本は、家族の絆や生命の重みを大事にする気持ちが、薄まりつつあるのではないかと感じます。

カネや国に頼る前に、必要なこと
もちろん勘違いだとは思いますが、そう感じるのは「カネ」さえかければ的な議論が先行し、何をするにしても基本である人の気持ちが置き去りにされているようだからです。例えば、現在、安倍内閣が掲げている教育再生や少子化対策などの是正の議論の中では、必ずといっていいほど、国が対策を講じず、必要な予算をつけなかったから「学校が荒廃した」「子供を産めない夫婦が増えている」というものがあります。
カネがないからダメになった、という意見に、僕は素直に賛成できません。紹介した中国の少女の家庭は貧乏だったけれども、少女を優しい思いやりのある子供に育てました。お金はなかったですが、少女には夢があり、家族愛が育まれました。
この少女が生きた四川省の農村部では、1人当たりの年間現金収入は1000元(約1万4000円)も届かないと聞いています。ですから治療費の30万元というのは、年間収入が500万円の人が15億円の治療費を負担するようなものです。

思いやる心がない社会の寒さ
少女の話がまたたくまに中国全土に広がったのは、中国も最近の経済発展でカネがすべてという退廃した空気が充満し、そして日本をはるかに凌ぐ格差社会の実態があるからだと思います。少女の話からお金よりも大事にしなくてはならないものがある、いくらお金があっても得られないモノがあるのだということに気づかされ、それがなんの見返りもない寄付という形になったのだと思います。
お金は、あることに越したことはありません。予算もそうです。教育再生、格差社会の是正に限らず、どんな改革を実行するのにも、予算は少ないより多い方がましです。しかし、お金をかければ、必ずいい結果が出るものでもありません。
学校が荒れているのは、教育予算の規模も関係しているかもしれませんが、僕には家族が、人を思いやる心を子供に与え、教えていないことに根本の原因があると思えます。もちろん家族だけが人を思いやる心を教えるものではありません。家族が教えられなくても、教師、地域、仲間が代わりを務めることもあるでしょう。
暖冬の中、寒々しい話をたびたび聞くにつけ、心のぬくもりについて考えてみました。』

2007/1/22
日曜日は、また法事でした。年末から毎週です。それに加え、急遽関東から親戚が父の見舞いに来ることになったので、家内と母が病院へ向かい、私は散髪。短時間バージョンの散髪を終え、病院に挨拶と家内を迎えに行きました。その後船に、電気ストーブとエアーポット、それにミカンを1箱入れに行き、すぐに家内の実家に急ぎました。
11時に着き、お寺さんが来られるのになんとか間に合いました。近所からお好み焼きと焼きそばを取り、姉夫婦と4人で昼食です。以前は、ここにそれぞれの子が5人いて、にぎやかだったのに・・・キャンプやスキー・・・思い出されます。先週の仕上げ法事で兄はまた腰を言わしたみたいで、この日は椅子に座っての法事でした。私も無理しないように行かなあかんですね。
その後、船の新年会に途中からお邪魔しました。朝船に置いておいたストーブは、この日は暖かだったので用なしでしたが、ミカンは大分食べてもらいました。渋川さんからのしし肉と金野シェフ購入の篠山おうみやのしし肉がメインの鍋です。エ号のメンバーと途中から中村さん、甲南の大野さんが加わりました。これだけ面白い話があるものだと感心するぐらい笑わせていただきました。
中村さんから、夜間航行のことをちょっと聞きました。いつかは夜光虫の中をヨットで走りたいと思います。またあの綺麗な光景を目にしたいです。

単独世界1周レース中の白石さんの今日の日記に、こう書かれていました。
『さあ、この日の夜がすごかった!
夕暮れ、日の落ちた後、南の空に大きな彗星が現れる。絵に描いたような彗星で、真っ赤な大きな星から空に大きく三角形の尾が伸びている。 昨夜は南氷洋では珍しく雲ひとつ無い天気。ユーコーの上には天の川が走る。前には南十字星。振るような星たちで、時々流れ星が舞い降りる。もう一度南の空を見上げると、なんだか明るい。弧を描いて薄いカーテンのように霞がかかっている。
オーロラだ!
怪しく緑色に光り、時には二重に、時には大きくゆらゆらと空を揺らしている。オーロラのカーテン越しに星が輝き、彗星もその尻尾を輝かせている。これほどの天体ショーは始めてである。満点の星、天の川、南十字星、流れ星、オーロラ、彗星。何よりすごいのが、これがすべて本物であるこということだ。ディズニーでもこれほどの演出はしないだろう。 すばらしかった! 残念ながら写真には暗すぎて撮れません。もしかしたら夕暮れ、彗星だけは撮れるかもしれない。トライしてみます。 僕は子供のころ兄貴の影響で星が好きになった。将来は宇宙へ行きたいと本気で思っている。太陽風を利用した、宇宙帆船、太陽系一周レースに参加してみたい。ちょっと寿命が足りないだろうが、いつかきっとできるだろう。ちなみに兄はそのまま星に夢を追い続け、今ではプラネタリウムのエンジニアである。
兄弟で宇宙、海と、夢を叶えたわけだ。朝、早速兄に電話した。流石である。すぐに答えが返ってきた。その彗星は、今、太陽の近くで輝く「マクノートMcNaught彗星」だと言う。
南半球は夏、そして南極に近いので、一晩中観測できたのだろう。電話に双子の姪っ子や、甥っ子が出てくれた。うれしかった。また子供たちの元気をもらった。昨日の大変さが、吹っ飛んだ。 こうしてみると、僕は人間の及びも付かない大自然の中にいる。昨日の天体ショーは人間では決して創ることのできない天の成せる技である。その大きさに感動し、子供たちの純粋で小さな声に心温まる。
自然界と人間界、そして自分への試練。すべてを満喫した一日だった。
康次郎』

う〜ん、見てみたい・・・

2007/1/15
日曜日は、また法事でした。クリスマスに家内の母が亡くなって以降、毎週実家に帰っています。今回は三七日(みなのか)ですが、来週の四七日(よなのか)に行う「仕上げ」と称する死後1ヶ月後のみんなで集まる行事を、兄が来週抜けられない仕事があるので1週間早く行うことになりました。
金曜の夜に東京から帰ってきた長男も含め家族4人で、まず豊中のおばさんの家に寄り、中国縦貫・山陽道を使って実家へ。車の中で、助手席の長男の最近の様子を聞きました。飛行機で飛び回っているようで、週2回出張すれば4回も飛行機に乗ることになるので、マイルが1年で10万円も貯まるようです。でも飛行機ではPCを開くことが出来ないので、大阪などの出張の時は新幹線で、車内でPC仕事をしながら移動するそうです。山の中にある広島空港は不便なようで、この時期路面凍結もあり広島市内に入るまでに通常でも1時間かかるから、難儀するそうです。それに対し、福岡空港は市街地に近く、北九州空港の最終便は夜中の0時過ぎにあるそうで、大変便利だそうです。まだ仕事をし始めて1年も経っていないのに、いろんなことを知っています。
実家の近所のいつものお寺さんを借りて、そこに遺影などを持ち込んで、お経を上げてもらいます。親戚が二十数名集まりました。うちの親戚が関東ばかりで、どうしても疎遠になる分、こちらの親戚とは親しくさせてもらっているので、いつものメンバーです。本堂に入ると、椅子が並んでいます。畳にパイプ椅子では雰囲気が出ませんが、この椅子は木製で足が低く、いい感じです。皆さんそれを見て、「いやあ、これええわあ」と口々に言っておられました。私もホッとしました。法事の何が辛いって、正座です。正座さえなければ、法事も随分違ったものになるだろうと思います。最初は厳かな気分だけど、しばらくすると、足の痺れとの戦いが始まります。お尻をちょいと浮かせたり、微妙に体重を右や左に移して、一刻も早くの終了を願っているだけになってしまいます。最後はいつも、果たして再び歩けるのか不安になるほどです。
その後、みんなで近所の料理屋さんに繰り出します。長男は、適当な時間にここから直接東京に帰るようで、車の中で着替えます。それを待って車を閉めようとすると、黒服が無造作に・・・「たたむぐらいしたらいいのに」とも思いましたが、何故か息子2人とも、自宅では「脱ぎっぱなし」が恒例なので、仕方ないなとハンガーにかけて車に吊ってから店に入りました。これ、家内に対する甘えのように思います。自分の部屋の衣類はちゃんと片付けてあるし、整理整頓も普通にやってます。次男の部屋は、男の子の部屋とは思えないほどきれいになってるし、下宿する時も不安はありませんでした。男は適当に抜けてるぐらいがちょうどいいなんて思っています。女性に小言を言われながら、私がいなければ、なんて母性本能をくすぐるぐらいが、世の中平和な気がします。ってこれは、私の言い訳を書いているのかもしれません。
1つの座敷に、テーブルが4つあり、足元が掘りごたつのように掘られています。適当に座り兄のお礼の言葉から、歓談の始まりです。美味しい料理が次々出てきて、腹いっぱい食べることが出来ました。ここで一番盛り上がっていたのは長男のいるテーブルです。ほんま彼がいると、場が盛り上がります。途中で帰るために辞す時も、最初に喪主である兄夫婦に挨拶をして、各テーブルに途中で辞す非礼を短くはっきりと詫びて回ります。長男の株がまた上がっているようです。見合いの相手でも頼もうものなら、おばさんたちがたくさん話を持ってきてくれそうです。
義理父方の親戚に西宮のおばさんがおり、帰りは西宮と豊中を回って帰ってきました。

2007/1/8
昨年は、クリスマスに義理母の鬼界入り、その後の一連の行事で暮れました。今年の元旦は、最近の定番であるお墓参りを、姉家族3人と我が家4人で行ってきました。いつもなら、そのすぐ近くの天満宮にお参りなのですが、今年はそうもいきません。
2日3日は、西宮のOP合宿に参加しました。スタート本部船から見ていると、相変わらずOP選手達の操船技術は見事です。ラダーの大きさも影響しているのでしょうが、狭いスペースにチョコチョコ入り込んで、タックしたり風位に立てたりを駆使しながら、その場をキープします。10cm単位で、本部船や他艇に当ててペナルティーを食らわないようにしています。それを必死にしている風ではなく、慣れ親しんだ通常の行為と言わんばかりに、笑顔さえ浮かべながら繰り返します。スタートホイッスル時には、綺麗に一線に並んで出て行くから、惚れ惚れしてしまいます。
以前内田さんが持っていていいなと思ったカメラとビデオが一体になっている手のひらサイズのカメラが、いろんなところではやっているようで、いろんな人が持っていました。兵庫ジュニアだけで、5家族以上は持ってるでしょう。丸山さんのを貸してもらい、ゴソゴソいじくっていたら欲しくなってきました。値段も3万あれば十分ということですが、対象物がないのに、買ってどうする?ということで、なんとか思いとどまっています。
3日朝、穏やかな天気で、風もソヨソヨ吹いています。お連れさんはいませんが、エ号を出すことにしました。ハーバーを出て、赤灯台沖の浮標目指してジェノアだけで帆走です。風向がよくそれだけでも2〜3ノットは出ているようです。上がり出した太陽が海面に光の筋を作り、それほど寒くない気温もあり、とても気持ちがいいです。
7日の日曜日は、家内の実家で法事、病院に父を見舞い、ハーバーに向かいました。エ号のフュエルゲージがおかしかったことと、ほとんど使わないトイレの水垢汚れが目立ったので、正月の掃除でもしようと思いました。航海灯をチェックしたりして、帰る前に新年会らしい中村さんの艇を覗くことにしました。関大・同志社・龍谷さんのOBさんも集まっており大賑わいです。どうも帰れる雰囲気はなく、数時間お邪魔してしまいました。私のような者にも先輩方が温かく声をかけてくれありがたいものです。初めての中村艇は、トイレが2つあり、シートが革張りであったり、折りたたみコクピットテーブルがあったり、ワングレード上の船です。盗難防止なのかステアリングが動かず、ステアリング前のオートパイロットなどのパネルがどのようになってるのか興味津々です。新和歌浦から帆走6時間というのは早いでしょ。
しばらくすると、林家染二さんが船に来られました。龍谷の菊池さんの後輩で、後援会長は関大の・・さんだそうです。二金会メンバーさんの新年会のようですが、いろんな繋がりがありますね。


逆説の10カ条 ケント・M・キース 『それでもなお、人を愛しなさい』早川書房 より引用&モディファイ こんな風に生きたいな・・・
1.  人は不合理、わからず屋で、わがままだ。それでも、愛そうじゃないか。
2.  何か良いことをすれば、自分のためにやったんだと、人はあなたを批判する。それでも、良いことをしようじゃないか。
3.  もしあなたが成功すれば、偽者(にせもの)の友人そして本物の敵が現れる。それでも、成功しようじゃないか。
4.  今日、行った良いことは、明日には忘れられる。それでも、良いことをしようじゃないか。
5.  誠実で、そして正直であれば、あなたは傷つくかも知れない。それでも誠実で、そして正直であろうじゃないか。
6.  大きな理念を抱く大きな人は、小さな心を持つ小さな人に撃ち落される。それでも大きな理念を抱こうじゃないか。
7.  人は弱者に同情するが、結局、強者になびいていく。それでも、少数の弱者のために、戦おうじゃないか。
8.  何年もかかって築き上げたものは、一夜にして崩れ去るかも知れない。それでも、築こうじゃないか。
9.  助けを必要としている人を、本当に助けたら、あなたは攻撃されるかも知れない。それでも、助けようじゃないか。
10.  持っている最高のものを、世の中に与えたら、自分は酷い仕打ちを受けるかも知れない。それでも自分の最高のものを、世の中に与えようじゃないか。

子供が育つ魔法のことば ドロシー・ロー・ノルト
子は親の鏡

けなされて育つと、子どもは、人をけなすようになる
とげとげした家庭で育つと、子どもは、乱暴になる
不安な気持ちで育てると、子どもも不安になる

「かわいそうな子だ」と言って育てると、子どもは、みじめな気持ちになる
親が他人を羨んでばかりいると、子どもも人を羨むようになる
叱りつけてばかりいると、子どもは「自分は悪い子なんだ」と思ってしまう

励ましてあげれば、子どもは、自信をもつようになる
広い心で接すれば、キレる子にはならない
誉めてあげれば、子どもは、明るい子に育つ

愛してあげれば、子どもは、人を愛することを学ぶ
認めてあげれば、子どもは、自分が好きになる
見つめてあげれば、子どもは、頑張り屋になる

分かち合うことを教えれば、子どもは、思いやりを学ぶ
親が正直であれば、子どもは、正直であることの大切さを知る
子どもに公平であれば、子どもは、正義感のある子に育つ

やさしく、思いやりをもって育てれば、子どもは、やさしい子に育つ
守ってあげれば、子どもは、強い子に育つ
和気あいあいとした家庭で育てば、子どもは、この世の中はいいところだと思えるようになる

日記の始まり
ウェブマスター神谷良成のヨット日記です。私はこのような経歴で育ちました。関西学院中学部でサッカー部に入りましたが虫垂炎で辞め帰宅部をしていました。高等部進学で今からでも一流になれるあまり人のしていないスポーツをしようと、馬術部とヨット部に絞りました。まずヨット部に行くとそこには、伊丹のキリスト教会で一緒だった先輩が3人もおられました。特に門脇さんとは小学校・中学校サッカー部も一緒で、馬術部部室に行く機会さえなく入部しました。門脇先輩とは大学ヨット部でコンビを組ませていただき、ヨットレースを教えてもらいました。温和な性格・ヨット理論・スピードアップのコツなど最も影響の受けた先輩です。
高校ヨット部入部当時、ヨットが速くなるためには毎日『ヨットノート』をつけることと、速い人の本を読むことが大事だと聞き、ヨットの神様ポール・エルブストロームの本を買いました。初めに「スポーツマンにたばこはいけない。肺活量が落ちる」と健康な体のことが書いてありました。そこでタバコは一生吸わないことに決めました。
ヨットノートは練習やレースでヨットに乗るたびに、アドバイスを受けたことや感じたことを書きました。たった1冊のノートから始まりましたが、大学4年でモスクワオリンピック強化選手に選ばれるまでになれた元になりました。その後次男が小学生でヨットを始めることになって再びレーシングの世界に戻り、コーチ・親の立場からヨットノートをつけ始めました。次男の海外遠征を機会に兵庫県セーリング連盟ジュニアヨットクラブのホームページを立ち上げ、その選手達のがんばりのおかげで、ジュニアヨット団体の日本OP協会の理事になりました。広報委員長を拝命し『Optiわくわく通信』(バックナンバー)を週に2本のペースで1年間会員さん中心に発信しました。別府ジュニアの『あらっヨット』(お母さんから見た子供のヨット日記)に刺激され、ウェブ日記を書くことにしました。
もう30年以上ヨットの世界を楽しんでいます。現在出身の関西学院ヨット部のウェブマスターもしています。

ジュニアヨットに対する基本的考え『学業とヨット』
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